歴史

防災歳時記 5月11日 濃霧の瀬戸内海に消えた不吉の船

 不吉な影を背負った船が、子供たちを霧の海に引きずり込んだ――。

 

 今日は5月11日。
 瀬戸内海では初夏の風情が漂い始め、小豆島のオリーブを柔らかな風がなぜている頃だ。
 普段は、温暖で穏やかな瀬戸内の海。

 

 しかし、その海が恐怖の海に豹変したことがある。

 

 今から58年前の昭和30年5月11日早朝、午前6時56分。
 香川県高松市の沖合4キロの瀬戸内海を航行中の国鉄・宇高連絡客船「紫雲丸」(1480トン)が、貨物船「第三宇高丸」(1282トン)と衝突した。

 

 当時、周辺海域には濃い霧が立ち込め、高松港の無線係は紫雲丸の出航前、二等運転士に「局地的な濃霧が発生するおそれがあります。視程は50メートル以下の見込みです」と伝えていたという。

 

 船には最新のレーダーが備えられ、事故の起こった女木島付近で両船が行き違うこともあらかじめわかっていた。にも関わらず、霧の中に浮かんでは消える船影にも十分な減速をほどこすことなく、2つの船は航行を続けた。

 

 衝突直後の混乱について、海難事故を裁く高等海難審判庁の裁決(昭和35年8月29日)は、次のように記している。

 

  「衝突と同時に紫雲丸においては、船内電燈が全部消え、また端艇甲板の無線室後部に非常用交流発電機が備えてあったが、起動する余裕がなく、船内放送、船内電話、無線電話等は使用不能となった。
 船長は、衝突後間もなく何等の指示を与えないまま、船橋右舷後部入口より端艇甲板に出て、損傷状況を確かめて船橋に引き返してくるとき、次席二等運転士とすれ違い、同人に『やったー』といって船橋に入り、その後その姿を見た者はなかった。」

 

 紫雲丸は、衝突からわずか5分ほどで沈没。船には旅客781人が乗っており、そのうち349人は修学旅行の小中学生。第三宇高丸に乗り移って難を逃れた人もいるが、半数以上は海に投げ出され、修学旅行生108人や船長を含む計168人が死亡した。

 

 昭和22年に就航した紫雲丸は、高松市にある「紫雲山」にちなんで名づけられたというが、「紫雲」の語呂は「死運」にも通ずる。昭和30年以前にも、死者7人を出す衝突事故を含めて4回の海難事故を起こしており、いかにも不穏な空気をまとっていた。

 

 この事故を機に、視界不良時に航行を取りやめるよう停船勧告する海上保安部の基準が厳しくなったり、連絡船の安全基準が見直されたりした。お役所の「何か起きてから動く」姿勢は、半世紀を経てもさほど変わっていないと思うと、虚しい。

 

 瀬戸内海の霧は春から梅雨にかけて発生する風物詩でもある。悲惨な事故を繰り返すまじ、と、事故を機にもう一つできたのが、瀬戸大橋だ。本州と四国をつなぎ、先の大型連休でも大勢の行楽客がマイカーを走らせたこの橋も、事故後に建設の機運が高まった。

 

  「紫雲」には、「臨終に際した者を極楽浄土に迎えるために仏が乗ってくる雲」という意味もある。瀬戸内の海に消えた命が安らかでありますように――。瀬戸大橋を渡る際にはほんの少しだけ、海に祈りを捧げてもいいかもしれない。 

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