歴史

防災歳時記7月7日若かりし武田信玄のクーデター

 今から472年前、1541年の今日7月7日、若かりし頃の武田信玄がクーデターを起こし、実父である武田信虎を国外へ追放した。

 

 この事件は、いち大名家の内紛として世間的な注目度は決して高くはないが、実は戦国時代に広く影響を与えた出来事とも言える。

 

 武田信玄と言えば、上杉謙信との戦いが有名である。川中島の戦いに限らず、朝廷から授かる官位の上下など、2人はさまざまな場面で終生争い続けた。

 

 先のクーデターの一件もその中でクローズアップされていく。

 

 上杉謙信が「親不孝者」となじったという話を聞いた信玄は激怒。以降、身分の高い武将ならば必携とされる『論語』を読むのをやめてしまった。

 

『論語』とは、中国・孔子の言葉が記された儒教を代表する一冊で、その中には「親を大事にする」ことが語られている。信玄がこれを捨てるということは、つまり謙信からの非難を真に受け取ったとの証拠と考えられる。

 

 こうした諍い(いさかい)が領土争いの火に油を注ぎ、当時最強とも言える2人の武将が争い続けていたのだから、後に天下を制した織田信長や徳川家康にとっては、攻め込まれる時期が大幅に遅れ、幸運なことであった。

 

 むろん、戦国時代は下克上の言葉が示すようにクーデターは日常茶飯事であった。

 

 斎藤道三や松永久秀、伊勢盛時(通称・北条早雲)など。さほど高くはない身分の侍たちが一国を支配し、そして他国から滅ぼされるということが頻繁に起きた。

 

 こうした国を動かす一大事から、一見、置き去りにされがちな民衆たちはどう過ごしていたのか。

 

 戦国時代というと、「強い大名が弱い農民を支配した」という構図を思い浮かべがちであるが、必ずしもそうとは言い切れない。

 

 農民たちが槍や刀で武装するのは普通のことであったし、加賀国(石川県)では浄土真宗の信者が起こした一向一揆で支配者が追い出され、民衆に近い本願寺が治めるという時代が長く続いた。

 

 彼ら本願寺の門徒たちが、大坂の石山本願寺では10年間に渡り織田信長に苦汁をなめさせ、最終的に負けてしまったが、それでも和睦というカタチで事態を収束させ、指導者が助命されているのは、決して民衆が弱くなかったことを物語っている。それ以上の戦いを嫌ったのは、むしろ織田信長であった。

 

 たとえ一人の強力な指導者がいても、結束した民衆のチカラを侮っては痛い目に遭う。父親を追放した武田信玄も、苦労したのは上杉謙信との争いよりも国内の統治であったと考えられている。

 

 指導者の苦労は並大抵ではない。歴史を振り返れば、後世に名を残すのは常に彼らではあるが、現実は一般民衆に突き動かされて、ときには不本意ながらやらされていることもあるのではないか。数のチカラは決して弱くはないハズ。

 

 エジプトの民衆は、軍部とモルシ大統領のどちらを選ぶのか? すでに衝突で死者も出ているとのこと。いずれにせよ流れる血が少なく事態が収束することを望む。

 

 

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