歴史

防災歳時記8月4日 鎖国の背景にオランダの陰謀あり

 今から374年前、1639年の今日8月4日は徳川幕府から最後の鎖国令が出された日である。

 

 鎖国とはご存知、外国との交流を禁じたものであるが、実は1633年から1639年まで5度にわたって出されており、その内容は「日本人の海外渡航禁止」や「在外日本人の帰国禁止」、「ポルトガル船の入港禁止」など。海外との交易を全面的に禁じたのではなく、一部の国とは依然としてお付き合いを続けていた。

 

 幕府は、中国やオランダの商館を長崎の出島に設置し、直接交易を行なっている。主に中国産の生糸を輸入し、日本の銀や俵物(海産物)などを輸出したのである。また、朝鮮に対しては対馬藩を通じて、当時外国であった琉球とも薩摩藩を通じて国交は続いていた。

 

 では、なぜ江戸幕府は鎖国令などを発布したのか。

 

 一般的には約2万7000人ものキリシタンや農民が1636年に島原の乱を起こし、キリスト教への恐れを強くしたからだと説明される。

 

 ただ、それでは矛盾が生じる。長崎出島へやってくるオランダ人だ。

 

 当時、ヨーロッパの主要国の一つであったオランダもまたキリスト教国であった。彼らとの交流は出島に限定されているから、日本人へのキリスト教布教の心配はない。だが、それならば、ポルトガルも出島にのみ寄港させればよいではないか。

 

 そうすれば欧州からの情報や交易はオランダ一国に限定されることなく、舶来品の売買ひとつとってみても、ずっと有利にコトを運べたであろう。

 

 まさにこの疑問に裏がある。実はこの一連の鎖国の流れ、幕府主導で進めたのではなく、オランダの計画に乗せられたという見方が有力なのだ。

 オランダは東インド会社を通じてアジア圏の交易独占を狙っていた。そのとき最大の障壁になったのがポルトガルであり、ほかならぬ日本人がアジア諸国に持っていた朱印船貿易の拠点であった。鎖国前の日本人たちは自分たちも積極的に海外へ出て行って、自ら貿易を行なっていたのである。

 

 オランダはまずポルトガルの排斥にかかった。

 

 江戸幕府に対し「自分たちはキリスト教の布教活動は一切しない」と確約した上でポルトガル人の布教の危険性を説き、「スペインがタイで日本人の朱印船を焼き沈めた。やつらもポルトガルも同じ民族で危険だ」などのネガティブ情報も積極的に報告した。

 

 また、そんな折に絶妙なタイミングで島原の乱が起きたものだから、幕府はオランダの意見に傾いてしまう。

 

 マカオと日本の交易を主力においていたポルトガルは、1639年の鎖国令でそのラインが分断され、大打撃を受けた。さらにはオランダ艦隊がアジアの海域でポルトガル船を襲撃し、そこで拿捕した戦利品を自分たちの貿易に回して大儲けをするのだから、もうどうにもならない。

 

 そんなことも露知らず、日本が朱印船貿易の拠点(中国やカンボジア、タイなど)から撤退すると、ただちにオランダは商館を設立。そっくり利権を奪っていくのである。

 

 これは後年(1673年)の話であるが、直接国交を禁じられていないイギリスが日本に近づこうとしたとき、その話を事前に入手したオランダは江戸幕府に対し「イギリスの国王は憎きポルトガル王女と結婚してますよ」と密告を入れておき、うまいこと日本側を操作して、イギリスの使者を追い返させたのである。

 

 かくして日本は少しずつ国際的に孤立し、幕末に黒船のペリーが来航するまで、欧米との交流はオランダに限られてしまったのだ。

 

 現代の我々はよく「日本人は島国だから外交がヘタだ」などと自嘲する。しかし、鎖国への経緯を考えると、江戸幕府はヘタどころではなく、まさに破滅的である。

 

 当時から比べたら、今はまだマシになったと言えるのだろうか? TPPでは第二第三のオランダに狙われていないことを祈るしかない。

 

 

※参考資料『国史大辞典』(吉川弘文館)

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