歴史

防災歳時記11月11日 ウイスキーが、お好きでしょ

 昨今は「ハイボール」ブーム。

 

 テレビのCMでも、「ウイスキーが、お好きでしょ…」と、懐かしいメロディーをよく耳にする。

 

 1983年をピークに、昨年まで、国内のウイスキー消費量はピーク時の5分の1にまで落ち込んでいたが、今年はサントリーもニッカも増産だそうだ。

 

 そして今から90年前の1923年(大正12年)の今日11月11日、この「ハイボール」ブームの火付け役、サントリーが建設した日本初のモルトウイスキー蒸溜所「山崎蒸溜所(大阪府)」の建設が始まった。

 

  「ジャパニーズ・ウイスキーの良きライバル」と言えば、サントリーとニッカだが、実はこの山崎蒸溜所を開いたのはライバル「ニッカウイスキー」の創業者竹鶴政孝だった。

 

 日本でも本格的なウイスキー製造を目指した寿屋(現サントリー)の創業者鳥井信治郎が、本場スコットランドに留学し、ウイスキー製造技術を学んだ竹鶴を「年俸4000円で契約は10年」という破格の条件で招聘したのだ。

 

 大卒の初任給が40〜50円という時代だった。

 

 蒸溜所の立地について、竹鶴はスコットランドに気候が似ている「北の大地」を主張したが、鳥井は消費地の近くを主張、結果、京都盆地と大阪平野の境界にあり、良質な水に恵まれた山崎の地が選ばれた。

 着工から6年後の1929年(昭和4年)、山崎蒸溜所の最初の作品、「サントリー白札」が発売される。

 

 「本物」にこだわった竹鶴が作った、4円50銭と高価なその国産ウイスキーは、スコッチ独特の「スモーキー・フレーバー」をまとっていたが、それはただ「焦げ臭い」と評価され、売れなかった。

 

 潔く身を引いた竹鶴は、当初自分が理想とした北海道余市町にニッカウヰスキーを作る。

 

 200万円と当時としては巨額の設備投資を行った山崎蒸溜所に比して、その資金はわずか10万円。

 

 

まずはリンゴジュースで食いつなぐ

 

 

 ウイスキー生産までは時間もかかる、ニッカの名前の由来は、当初の社名「大日本果汁株式会社」だ。

 

 その後、戦争の時代もあり、ジャパニーズ・ウイスキーは紆余曲折の歴史をたどるが、鳥井の情熱と竹鶴のこだわりによって、サントリーの角瓶、オールドやスーパーニッカなどのヒット商品が登場し、日本はウイスキー全盛時代を迎えていった。

 竹鶴がこの世を去って22年後、世界で唯一のウイスキー専門誌「ウイスキーマガジン」のコンテストで、ニッカの「シングルカスク余市10年」が1位に選ばれた。

 

 山崎蒸溜所建設から78年、竹鶴のこだわりがジャパニーズ・ウイスキーを世界の頂点に導いた瞬間だった。

 

  「人生を飲み下すような苦い味

 

 

 「呑み下すような人生」すら知らない若造の頃に飲んだウイスキーは、それこそただただ苦いだけの代物だった。

 

 最近はハイボールにすることでウイスキーは「ライトな酒」に生まれ変わり、そのおかげで食事と一緒に飲めるアルコールとなって、ブームを加速させた。

 

 「こだわりの人」竹鶴政孝は生前、食事と一緒にウイスキーを飲もうとすると怒ったらしい。

 

 が、その一方で「これが一番ウイスキーの味と香りが分かる」と言って、いつも「水割り」をたしなんだ。

 

 水割りの濃さは、「ウイスキー1に水2」。

 

 思えば自分が初めてウイスキーの苦さを知った頃から、はや四半世紀。

 

 その苦さ故に、その後も率先して飲もうと思ったことはなかったが、あの頃よりは多少なりとも人生経験も増えた。

 

 この歳になってみれば、「人生を呑み下すようなウイスキーの苦さ」の中に、竹鶴のこだわりを少しは感じられるようになっているのだろうか。

 

 試してみるか。竹鶴流の「ウイスキー1:水2」の水割りで。

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