歴史

防災歳時記12月2日 慶長三陸地震と金銀島

 今から402年前、1611年(慶長16年)の今日12月2日、M8.1の慶長三陸地震が発生した。

 

 この地震によって岩手県大船渡などを最高20メートルの津波が襲い、現在の岩手県から宮城県沿岸部では数千人の命が失われた。

 

 この慶長三陸地震については、『ハザード今昔物語第十七巻 伊達政宗は転んでもタダでは起きない』で詳説されているので、今回は、この慶長三陸地震による大津波を目撃した一人の外国人の話を。

 

 その男の名は「セバスチャン・ビスカイノ」スペイン人。

 

 スペインの領有するフィリピンの前総督ドン・ロドリゴが航海中に台風で遭難、上総国(現千葉県)で救助された答礼使として日本に派遣されたが、「答礼使」なんて建前。

 

 実は、国王フェリペ3世の命を受けて、『伝説の金銀島』を探しにきたのだ。

 

 ヨーロッパでは、すでに紀元1〜2世紀頃から、ギリシャやローマの地理書に「インド洋に金や銀がうなる島がある」と記述され、人々のあくなき欲望を刺激していた。

 15世紀になると、マルコ・ポーロの「東方見聞録」で「黄金の島ジバング」として日本は一躍、西洋世界で有名になる。

 

 大航海時代が生まれたのも、半分はこの「黄金島伝説」のおかげだ。

 

 その後、「日本の東海上北緯29〜30度に金島、33〜34度に銀島がある」とかなんとか、さまざまな説が流布されて、ビスカイノも「日本の端から150レグア(約840キロ)にある銀島を探索しろ」との命令書を携えていた。

 

 ところがそもそも日本の正確な地図がないから、「日本の端から840キロ」と言われてもどこだか分からない。(だとすれば、そもそも『840キロ』という最初の情報そのものが怪しいということになるはずだが)

 

 そこで、ビスカイノの重要な使命の一つとして、「日本東海岸の測量」というのがあった。

 

 ビスカイノは徳川家康に謁見して、「航海中の避難場所」とか、「地図の写しは幕府にあげます」とか、調子の良いことを言って、測量作業のOKを取り付け、伊達政宗が領有する三陸海岸へと一路向かうのだった。

 そしてビスカイノは慶長13年の12月2日、越喜来(おきらい 現岩手県大船渡市)に上陸しようとする船上で、慶長三陸地震の津波に遭遇する。

 

 その時の様子が、ビスカイノの「金銀島探検報告」に記載されている。その要旨を現代語訳風の意訳で……。

 

 

「越喜来の入江に入ったが、上陸する前に、男も女も村を捨てて山に逃げていく。

 

 これまで他の村では、村人がみんな自分たちを見物するために海岸に出てきたので『変だなあ?』と思った。

 

 自分たちから逃げようとしているのだと思って、『ちょっと待ってくれよ!』と呼び止めたが、みんなが逃げているのは、1時間も続いている大地震のためで、海水は1ピカ(3メートル89センチ)あまりの高さで陸との境界を越え、村に流れ込んでいる。

 

 家やわらの山は流され、津波は3回襲い、多くの人が溺死した……」

 

 

 まるで「これはネタか!」と思うほどに、何とも「間抜けな探検家」だが、ビスカイノは大船渡市で測量のための北上を終え、反転して九州沿岸までの測量を行なっている。

 

 大船渡市の北緯は39度あたり。それより北には「金銀島はない」という判断だったのだろう。

 当然ながら、ビスカイノは「金銀島」を発見することはできない。

 

 だが一方で、ビスカイノらと会って、伊達政宗の中の「海外交易熱」は一気に高まり、ビスカイノと一刻も早い面談を求めていた。

 

「自ら船を造り、イスパニア(スペイン)国王に進物を贈り、領内でキリスト教を説く宣教師を求めたい」

 

 

「下心満々で日本に来たのに、なんだか先方がスペイン熱に盛り上がっている…」

 

 ビスカイノは本心でどう思ったのだろうか?

 

 結局、ビスカイノは翌年にいとまごいをして、帰国の途につく。

 帰途でも金銀島を探すが、見つからず、その上、嵐にあって自身の船「サンフランシスコ2世号」は大破、浦賀に舞い戻るはめに。

 

 幕府に「帰国するための船の建造費を用立ててほしい」とお願いするが、幕府はこれを拒絶。

 

 よくよく「ツイてない探検家」だが、最後にラッキーがめぐってきた。

 

 「海外交易熱」に取り憑かれた伊達政宗が支倉常長ら慶長遣欧使節団の派遣を決めた。

 

 船の建造にビスカイノが協力したのは言うまでもない。

 

 結局、ビスカイノは遣欧使節団のサン・ファン・バウティスタ号に同乗して、メキシコ・アカプルコまで送ってもらう。

 

 最後まで「ラテン系な探検家」だった。 

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