歴史

防災歳時記12月29日 「赤とんぼ」と軍歌 山田耕筰忌

   夕焼け小焼けの赤とんぼ 負われて見たのはいつの日か
   山の畑の桑の実を 小かごに摘んだはまぼろしか
   十五で姐やは嫁に行き お里のたよりも絶えはてた
   夕焼け小焼けの赤とんぼ とまっているよ竿の先

 

   郷愁を誘う歌詞とメロディが、今なお多くの人に愛されている「赤とんぼ」。


   日本を代表する童謡とも言っていいこの名曲を手がけた作曲家・山田耕筰は、今から48年前の1965年の今日12月29日に亡くなった。


   山田耕筰と言えば、日本で最も有名な作曲家の一人。多くの人はその名前を聞けば、「赤とんぼ」をはじめとする童謡や、詩人・北原白秋と共同創作した「からたちの花」などの歌謡曲を思い浮かべる人が多いだろう。

 

   が、一方で、そんな山田耕筰が戦時中、数多くの軍歌を作ったことはご存知だろうか。

   1886年、現在の東京都文京区に生まれた山田は、10歳の時に医師でキリスト教伝道者だった父を亡くす。苦学の末に東京音楽学校(後の東京芸大)を卒業し、三菱財閥の総帥・岩崎小弥太の援助を受けてドイツのベルリン音楽学校に留学した。この時、日本人初の交響曲「かちどきと平和」を作曲している。


   帰国後は岩崎の設立した「東京フィルハーモニー会」の管弦楽部首席指揮者に就任。この楽団は山田の女性問題で岩崎がスポンサーを降り、あっけなく瓦解してしまうが、山田はその後も常設オーケストラをあきらめず、訪米や帝国劇場でのオペラ上演を経て、1924年に「日本交響楽協会」を設立した。


   結果的にはこの協会も不正経理を巡る内紛で崩壊してしまうのだが、若き日の山田がいかに西洋音楽に親しみ、それを日本に普及させようと奔走していたかがわかる。


   しかし、戦時色が次第に色濃くなり、だんだんと音楽を巡る環境も自由のきかないものになっていく。


   画家や文学者、映画監督らも戦時中はさまざまな制約の下、戦意高揚に利するような作品作りを陰に陽に求められたが、音楽で言えば、ドイツ、イタリアを除く西洋音楽の演奏はダメ、日本の音楽でも男女のロマンスを謳うような叙情曲はけしからん、といった風潮だった。


   そんな中、山田は、思想統制の司令塔である情報局管轄の「日本音楽文化協会」の副会長に就任。自ら軍服姿で行動し、音楽家たちを軍の慰問や生産工場の激励へ先導した。


   戦争映画の主題歌「翼の凱歌」「燃ゆる大空」や、「サイパン殉国の歌」「連合艦隊行進曲」「なんだ空襲」……。作り上げた軍歌、戦時歌謡曲は100余りに上るという。


   山田はその”積極さ”から、戦後、音楽評論家の山根銀二から、東京新聞の紙面上で名指しで批判され、楽壇戦犯論争の槍玉にあげられたほどだ。


   山田がどんな思いで戦時に”協力”したかはわからない。ただ、その一端は他でもない山田自身が、同じ東京新聞の紙面に「反論」として載せている。

 

   抜粋して曰く、
「祖国の不敗を願う国民として当然の行動であり、そうした愛国的行動が戦争犯罪になるとすれば日本国民は挙げて戦争犯罪者として拘禁されなければならないであろう」


   山田は論争が収まった1948年、脳溢血で倒れ、以後は体が不自由になった。そして1965年、年の瀬も迫った12月29日、自宅で息を引き取る。79歳だった。

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