歴史
Loading

防災歳時記3月15日 平民宰相の本当の姿

 今から158年前、1856年(安政3年)の今日3月15日、盛岡藩士の家に一人の男の子が生まれる。

 

 その男の子は、長じて郵便報知新聞社(現在の報知新聞)に入社したが、その後外務官僚として出世し、最後は立憲政友会に入党して、首相にまで上り詰めた。

 

 その男の子は「平民宰相」として名高い、学校の歴史の教科書には間違いなく登場する、第19代首相 原敬

 

 ところで日本の政治構造と言えば、例えば故田中角栄氏に代表されるような、「地方ばらまき型」というか「利益誘導型」をすぐ思い浮かべる。

 

 「選挙区に公共事業などカネを落とすから、選挙はよろしくね」という奴だ。田中元首相の地元新潟県も、かつては「新潟県に行くと、突然道路がリッパ」などと言われていた。

 

 しかし、こうした「利益誘導型」の政治は、明治政府が始まって以来の日本古来の伝統じゃあない。

 

 もしそうなら、鹿児島県や山口県は、もっと大都市になっていたはず。と言うか首都だって東京じゃなかっただろう。

 

 藩閥政治への毀誉褒貶(きよほうへん)も色々あるが、薩長閥は、そう言う意味では「清廉潔白」、「地元への利益誘導」にことさら無頓着だったようだ。

 

 じゃ、誰が「利益誘導政治の元祖」かと言えば、この原敬こそが「元祖 田中政治」と言えるのではないか。

 

 当時は「積極主義」と、きれいな名前が付けられていたが、つまりは「地方に鉄道を敷くから支持を」というやり方で党勢を拡大、「我田引鉄」とも呼ばれた。

 

 政治の本質を「利益の調整」とするなら、原敬は卓越した政治の天才だった。

 

 党勢を拡大し、政党政治の礎を築く一方で、山県有朋ら藩閥政治(官僚派)との衝突を巧みに避け、少しずつ藩閥政治の権力を切り崩している。

 

 原敬は終世、爵位の授与を断り続けたことから「平民宰相」として国民の絶大な人気を博していたが、実際は政党政治家として駆け出しのころは、爵位をほしがっている。

 

 爵位を固辞したのは、功なり名なり遂げて、盤石な地位を築いてからで、そのタイミングに応じて、爵位がプラスになるかマイナスになるかを判断する「超現実派」の感覚を持ち合わせていたのだろう。

 

 さらに消費増税も含め、現代日本の最も重要な政治課題の一つ「赤字国債」の問題も、原敬が元祖と言える。

 

 原敬は公債をどしどし発行し、鉄道敷設を進めるだけでなく、予算の2倍に膨れ上がった軍事費も公債発行でまかなった。

 

 高等教育の充実にも力を入れており、早稲田大学、慶應義塾大学、明治大学、法政大学、中央大学など、現代の名だたる私大の多くが、原内閣下で旧制大学に昇格している。

 

 こうやって見ていくと、功罪ともに現代の日本政治の「基本的パターン」を作ったのは、「ばらまき型利益誘導政治の元祖」である平民宰相に思えてくる。

 

 ちなみに国会での施政方針演説などで首相が自分の一人称を「私(わたし)」と呼ぶのも、原敬が最初。それまでは「本官」とか「本大臣」と言っていた。

 

 その利益誘導型政治手法を山県有朋らは嫌っていたが、原敬が東京駅で暗殺されたときは、嘆き悲しんだという。

 

 政敵である藩閥政治の元老をしてまで悲嘆にくれさせる、その平民宰相の政治手腕とバランス感覚は、それほどまでに卓越したものだったのだろう。

 あなたにオススメの記事