歴史

防災歳時記4月28日 京都で宝永の大火が発生

 今から306年前、1708年の今日4月28日、京都で「宝永の大火」が発生した。

 

 油小路通で発生した火が西南の風に煽られ、北は今出川通、南は錦小路通、東は鴨川まで延焼。

 

 これにより、禁裏御所(天皇の御所)や仙洞御所(上皇・法皇の御所)なども含めて公家屋敷95軒、家屋1万351軒、寺社119カ所、大名屋敷21軒が焼失し、文字通り京都市街の多くが火の海となった。

 

 京都では、その後1788年にも天明の大火が発生しており、こちらは京都史上最大の火災と言われている。

 

 このときは鴨川東側の民家から出火して火は南北、西へと広がり、2昼夜燃え続けた結果、御所や公家屋敷、寺社、民家などを焼き尽くし、市街地のほぼすべてが焼け野原と化した。

 

 ほかにも1864年に「どんどん焼け」という大火があり、この3つを称して「京都の三大大火」と呼ぶこともある。

 

 一般的にこの時代の火事と言えば江戸の名物であり、規模もはるかに大きな三大大火(明暦の大火・目黒行人坂の大火・丙寅の大火)が有名だが、同じく木造家屋が所狭しと建ち並ぶ京都もまた、火事には散々悩まされた都市だったのだ。

 

 江戸時代の消防活動は「破壊消防」が基本である。

 

 水道設備が整っていないため、燃え盛る炎を水で消すのは現実的ではなく(多少は放水もしていた)、火事が発生したら事前に周囲の建物を「破壊」して、延焼を防ぐのだ。

 

 これは西も東も事情は同じで、こうした作業を専門としたのが町火消などであり、京都では京都所司代や奉行所が彼らを指揮していた。

 

 しかし、破壊消防とは、一見するとかなり無理のある行為である。

 

 まだ燃えてもいない家を破壊されてしまうのだ。持ち主にしてみりゃたまったもんじゃないだろうし、もし自分だったら、とてもじゃないが承服しかねる。

 

 そこで、たとえば京都の冷泉町では、次のような決まりがあったという。

 

『火事があった場合は町の木戸口から2軒目までを町の責任で取り壊し、後に町の責任で建て直す。家主は一切異議は唱えられない』(参考・滋賀県立大学京樂真帆子教授『都市平安京の火災と消化』)

 

 いざ火災が発生したら四の五の言わずに破壊消防をせねば、街全体が燃えてしまう。そこで事前に取り壊しの規則を決めておいたのだ。町の経費で壊し、町の経費で家を建て直すなら、持ち主も異論を挟む余地はない。

 

 少し意地悪な言い方をすれば、京都の町民には、そういう決まり事でもなければ、火災のときにも「家を壊すな!」と文句を言う人がいたのか…。こうなると、やっぱりきっぷの良い江戸っ子の方がいいよね。

 

 と、東京人は言いたくなるのかもしれないが、江戸の町民は多くが賃貸物件で、たとえ家が燃えても一時的に寺社などの避難所で過ごし、しばらくして元の長屋に戻って生活ができた。

 

 早ければ一日で建て直される家もあり、幾度も大火が発生していた江戸では、それはある種の「景気対策」だったという見方もできるほどだ。

 

 京都でも、大火の後は建材が数倍の値で売れたという記録も残っている。結局、たくましいのは西も東も変わらないってことであろう。

 

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