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  • 歴史

東日本大震災が起きてから、日本の歴史が震災という新たな角度で注目されるようになった。

 

M8.0クラスの大震災
富士山の噴火
大飢饉を招いた気候の寒冷化
など

 

かつては「大げさ」の一言で片付けられがちだった古文書の内容が、現実を目の当たりにして笑い事では済まされなくなったからだ。


歴史の記録には、我々の祖先が体験してきた貴重な記憶が詰まっている。

当連載では、それをやさしく紐解くことで、災害の今昔を学んでいきたい。

第十四巻 大地に呪われた天皇

 本連載では、これまで3度、平安時代の大災害を取り上げてきた。
 貞観地震富士山噴火、秋田と山形の県境にある鳥海山の噴火である。詳細はそれぞれの項目を参照していただきたいが、実はこれらのハザードには、ある特徴がある。


 それは、すべて清和天皇の治世に起きていることだ。

 

 災害に悩まされた天皇と言えば、奈良の大仏を建立した聖武天皇も「悲劇の為政者」として当連載で取り上げたが、実はそれよりも激しく辛い時代があったのである。

 

 歴史学者に「大地に呪われた天皇」とも評されるほどの清和天皇に注目してみたい。

 

 

 

わずか9才で即位した最初の幼帝

 清和の人生は、幼い頃から波乱含みだった。


 即位したのは、わずか9才。日本史上初の幼帝であり、政治の実権を握ったのは母方の祖父、藤原良房(よしふさ)であった。
 摂政や関白など、藤原氏が好き勝手に振る舞う「摂関政治」は、このときが始まり。清和が歴史の教科書でもあまり重要視されないのは、この先、時代の中心となるのが藤原氏だからであろう。


 しかし、災害史から見ると、それはそれは注目すべき治世であった。まずは、ざっと年表で確認してみたい。

 

850年 誕生
858年 即位(9才)
864年 富士山噴火
866年 応天門の変。大干ばつ
867年 別府鶴見岳、阿蘇山の噴火
868年 京都で有感地震(21回)
869年 肥後津波地震、貞観大地震
871年 出羽鳥海山の噴火
872年 京都で有感地震(15回)
873年 京都で有感地震(12回)
874年 京都で有感地震(13回)。開聞岳噴火
876年 大極殿が火災で焼失。譲位
878年 関東で相模・武蔵地震
879年 出家。京都で有感地震(12回)
880年 京都で地震が多発(31回)。死去(享年31)

 

 最初のハザードは、864年、清和15才の時だった。


 有史以来、最大級となる富士山噴火で、地震や巨大な音を発すること10日間。記録によれば、大地を暗闇にし、大量の溶岩が流れ、多くの人命を奪い、動植物をなぎ倒したという※1。


 富士山噴火が原因ではないだろうが、コレを機に毎年のように飢饉や疫病(インフルエンザ、赤痢など)が蔓延。追い討ちをかけるように、別府鶴見岳(大分県)、阿蘇山(熊本県)で噴火が起き、翌年には平安京も地震に襲われた。

 

 

※1 この大噴火の溶岩流が当時の「せの湖(せのうみ)」を西湖と精進湖に二分し、現在の富士五湖の姿を誕生させたとも。そして溶岩流が流れついたところが現在の青木ヶ原樹海という

せっかく譲位して、出家までしたのに…

 もう、十分だ、やめてくれ。と、初っ端からお腹一杯になる災害であろう。しかし、まだまだ止まらない。


 869年には、津波と地震で東北の人命を数多く奪った貞観地震が発生し、2年後の871年には鳥海山が噴火するのである。都では、「蝦夷の反乱か」との恐れも相まって社会不安はピークに達し、そこへさらにもう一発、貴族たちに恐怖の災いが舞い降りる。


 876年、平安京の中枢部が火災で焼失してしまったのだ。

 

 現代なら失火、もしくは社会不安にかこつけた放火とも想像できるだろうが、当時、こうした火災は「天変地異」の一つと理解されていた。


 そしてとうとうこの年、清和天皇は陽成天皇に跡を譲り、出家してしまうのである。

 

 体調を崩し高熱を出したためというが、度重なる災害が体調不良や精神面への圧力となったのだろう。
 第一線から退いた清和を待ち受けていたのは、それでもしつこく続く災害であった。


 880年、京都で30回もの有感地震が発生。これは歴史書に記載されている中でも群を抜いて多い回数である。実際には、もっと多くの揺れが発生していたかもしれない。


 いずれにせよ、当時の天災は天皇の責任と考えられていた時代である。この後、清和の容体は急激に悪化し、ついに息を引き取ってしまう。享年31才という若さだった。

 

 

 

武門一族の棟梁として燦然と輝く子孫たち

 災害に襲われ続け、若くして失意のまま死んだと思われる清和は、実際のところ物静かでインテリなインドア派であり、彼の治世には『続日本後紀』などの歴史書がつくられた。


 完成したのは貞観地震からわずか3ヶ月後。常識で考えれば、大災害のさなかに歴史書を編纂する必要があるのかどうか、はなはだ疑問だ。それをあえて優先させたのは、「歴史に学んで、恐ろしい大震災のことを忘れてはならない」という、過去の教訓を記録したいという使命感のあらわれとも考えられる。

 また清和は、数々の法律書物も編集・施行し、現実社会への対応も怠らなかった。872年には摂政・関白に頼らない親政を自ら行い、未曽有の危機にも立ち向かっている。


 インドア派だからといって、単なる弱腰でもなく、ある種の決意を伴った人物とも想像できるのだ。


 そんな清和らしいエピーソードも残っている。彼は、災害に苦しむ人民や臣下のことを思ったのであろうか。死に際して自身の墓を簡易なものにするように厳命している。現在も京都市左京区金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)の裏山にある小さな火葬塚が、水尾山陵という彼の陵墓である※2。


 鎌倉幕府を開いた源頼朝。それに続く室町時代を作った足利尊氏。諸国から恐れられた戦国大名の武田信玄など。日本史に燦然と輝く武将たちが清和源氏の出、つまり清和天皇の末裔たちであるのは、単なる偶然ではないかもしれない。

 

 

 富士山の噴火や貞観大地震など。大災害は個別に起きるわけではなく、誘発されて新たな大災害が起きる可能性が高いと今では考えられている。
 清和の時代から、我々は何を学ばなければならないのか。それは現在が、東日本大震災からまだ2年しか経過していないという事実であろう。

 

 

※2 当時の天皇は、死後、豪華な山稜(陵墓)をつくり、平安時代の法令集『延喜式』に記録されるのが普通だった。しかし清和の墓は、立派な「山陵」ではなかったため、『延喜式』に記載されなかった。

 

 

 

 

 著者紹介
文・恵美嘉樹(えみよしき)
作家。歴史研究の最前線の成果を社会に還元する二人組。
著書に『全国「一の宮」徹底ガイド』(PHP文庫)、『最新日本古代史の謎』(学研)など。

好きな源氏は源為義

 

【参考文献】
・保立道久『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書)
・歴史学研究会編『震災・核災害の時代と歴史学』(青木書店)

 

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