• 歴史

東日本大震災が起きてから、日本の歴史が震災という新たな角度で注目されるようになった。

 

M8.0クラスの大震災
富士山の噴火
大飢饉を招いた気候の寒冷化
など

 

かつては「大げさ」の一言で片付けられがちだった古文書の内容が、現実を目の当たりにして笑い事では済まされなくなったからだ。


歴史の記録には、我々の祖先が体験してきた貴重な記憶が詰まっている。

当連載では、それをやさしく紐解くことで、災害の今昔を学んでいきたい。

第二十一巻 貞観地震からの復興~前編

 869年に東北で起きた貞観地震。平安時代のこの大地震はM9.0クラスの規模だったと推定されており、後に東日本大震災が「千年に一度」と呼ばれる由来にもなっている。

 

 その詳細は当連載第2巻でも記したが、では、この未曾有の震災から当時の人々はいかにして「復興」を果たしたのであろうか。

 

 今回は貞観地震の「復興」に焦点を当て、前後編の2回に渡ってお送りしたい。

西門の目前に大量の墓が…

 貞観地震とは、どのような地震だったのか。詳細は第二巻に譲るとして、概要だけでも触れておこう。
 以下の記述は「日本三代実録」という正式な国史に記されたものである。

 

『人々は叫び、倒れた人は起き上がることができない。家が崩れ圧死したもの、地滑りや地割れで生き埋めになった』
『荒れ狂う海は渦巻きながら膨張し、巨大な波はまたたくまに「城下」を襲う。溺死したものは一千人』

 

 推定M9.0というだけあって、まさしく東日本大震災を彷彿とさせる激しい内容であろう。特に津波は内陸数キロのところまで進み、死者も万単位で出たと見られている。

 そして文中に出てくる「城下」とは、当時の城と城下町である多賀城(現在の宮城県多賀城市)を示しているのだが、実はこの多賀城こそが、その後の「復興」を支えることになった重要拠点となる。


 多賀城は、もともと東北の蝦夷(えみし)に対抗して作られた地方都市である。丘陵にある中央政庁と、東西南北に区画された城下町で構成されており、さながら東北の平安京とでも言うべき、古代で最も整備された都市の一つであった。

 

 その多賀城の姿が明らかになったのは、実は最近のことだ。発掘調査が進み、考古学会でも注目の的になっており、地震と関連した遺跡も見つかっている。こうした発見をもとに、史料と照らし合わせながら「復興」の様子を見ていきたい。

 

 前述の「日本三代実録」によると、貞観地震の被害が起きた869年、当時の朝廷は、すぐさま責任者を現地へ送り、死者を埋葬するように命じた。
 鎮魂のためではない。疫病の発生予防だ。

 

 実際、多賀城の外側には、被害者を埋葬したらしき集団墓が見つかっている。この城には南、東、西と3つの門があり、貞観地震の後、西門の正面に突如として墓地が現れたのである。

 

 約100基ほど見つかった墓のうち8基が子ども用。被葬者は、城下町に住んでいた下級官吏や庶民であろう。この墓地は数十年後には使われず、暫定的な措置だったことも明らかになっている。

 

 現代で言えば、県庁の入り口駐車場に緊急墓地を設置するような感覚であろうか。地震による死者が溢れ、土地の確保に苦労した様子がうかがえる。

まずは復興のシンボルを建設した

 墓地の確保にも汲々とした当時の朝廷だが、その後の復興については、かなり積極的な策がとられた。

 

 まず、現代の復興庁にあたる「陸奥国修理府」を設置すると共に、多賀城の政庁などの建物もリニューアルした。
 創建から数えてこのときは3度目の改修となるのだが、震災後の工事が過去最大規模となっている。

 

 そもそも多賀城の中心となる政庁は、丘の上に建っていたため、津波の直接被害は受けていない。
 しかし、これを地震以前より立派にすることで「復興の象徴」としたのであろう。
 ちょっとした建設ラッシュは、もしかしたら復興バブルだったかもしれず、あくまで私見ではあるが、改修工事に合わせて復興庁専用らしき庁舎まで建てられている。

 

 一方、被害の酷かったのは城下町で、当時の主要道路「南北大路」と「東西大路」の交差点にまで津波は押し寄せた。河口から約4キロの地点にまで、海水が遡上したのである。


 この津波直撃のおかげで、交差点での復旧作業は進まず、以降は、津波被害のなかった方面へと町が拡大している。
 土に染み込む塩害で家屋が腐食するのを恐れたのであろうか。あるいは千年後に来ることになった「次の津波」に備えたのか。真実は不明だが、壊滅的な打撃であったことだけは間違いない。

 

 そんな街を建て直すため、朝廷が実行した大きな政策が、地元住民たちに対する「税金と労役義務の免除」であった。

瓦から見る地域復興の証

 幸いなことに内陸部の畑や田んぼは全滅を免れていた。ゆえに米や農作物はとれる。税金免除で食物が余れば以前より裕福になり、自ずと復興にも資金は回る。

 このときは、そんな絵に描いた餅がうまくいったようで、その一例を示す証拠も挙げられる。それが多賀城の南にある陸奥国分寺と陸奥国分尼寺だ。

 

 国分寺・国分尼寺は、鎮護国家(仏教で国の災難を治める)というスローガンのもと聖武天皇が全国各地へ建てたお寺のことで、貞観地震から約100年も前に建設されていた。
 本来は「国営」のお寺であるこの国分寺・国分尼寺。それが震災後には地元の自治体で再建されたのである。

 

 証拠となったのは「瓦」だ。陸奥国分寺跡を発掘したところ、「陸奥国修理府」とはタイプの異なる瓦が寺の復興事業に数多く使われていたのである。

 おそらくコレは国直営の窯ではなく、地元の郡司(現在なら市長レベル)らが独自に焼いたものだろう。たかが瓦と笑うなかれ。本来国を護るはずのお寺を自治体の主導で直すとなれば責任も大きく、地元の役人や住民にとっては一大事であっただろう。

 

  が、現実に「税金・労役の免除」という朝廷の配慮から、地元にこうした余力が生まれていたのなら、国の政策としては大成功であろう。結局、復興への一番の近道は、地元の自力回復を国が全力でサポートすることなのかもしれない。

 

文・恵美嘉樹(えみよしき)
作家。歴史研究の最前線の成果を社会に還元する二人組。

著書に『全国「一の宮」徹底ガイド』(PHP文庫)、『最新日本古代史の謎』(学研)など。

 

参考文献
岡本公樹『東北不屈の歴史をひもとく』(講談社)
柳澤和明「貞観11年陸奥国地震・津波」『日本歴史災害事典』(吉川弘文館)

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