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陸自史上最大の作戦 東日本大震災

陸上自衛隊 現在の実員数 約14万人。
創設から58年の歴史の中で史上最大の作戦は、言うまでもなく「東日本大震災への災害派遣」だ。
のべ派遣人員1066万人、派遣期間291日間、犠牲になった隊員は5名。
福島第一原発上空で放水する陸上自衛隊のヘリコプターのテレビ映像に釘付けになった人も多いだろう。
メディアで刻一刻と状況が報じられる裏側で、陸上自衛隊に何が起き、どのように作戦を遂行していったのか?
当時の陸上自衛隊トップ 火箱芳文前陸上幕僚長が2年近く経った今、「史上最大の作戦」の真実を語り始めた。

第25回 プロメテウスの希望 ゼウスの怒り(20)

吉田昌郎元福島第一原子力発電所長

 未曾有の大災害の中で起きた福島第一原発の事故は、まさにこの国の存亡に関わる事態だった。

 

 破滅の淵にあった日本が間一髪で命長らえたのは多くの人の力によるところだが、当時海外メディアの多くは、この男を「日本の命運を決めるキーパーソン」と見ていた。

 

「FUKUSHIMA 50(フクシマ・フィフティ)」=福島第一原発を守る最後の50人の男たちのトップ。

 

 吉田昌郎元東京電力執行役員福島第一原子力発電所所長

 

 吉田氏は、さる7月9日午前11時32分に、その58年の生涯に幕を降ろした。短すぎる一生だった。

 

 福島第一原発は、今も汚染水の海洋流出が続き、東京電力は厳しい批判にさらされ続けている。

 

 確かに東京電力でなければ、こんな事態にならなかったのかもしれないが、一方で東京電力の「この男」がいたからこそ、日本は「最悪の事態」をまぬがれたこともやはり事実だ。

 

 福島第一原発災害対処の前編となるこの章の最後は、陸上自衛隊から見た吉田元所長像を紹介し、故人の人柄と業績を偲びたい。

2011年7月24日 3号機事故から4ヶ月後

 東日本大震災発生から3日後の2011年3月14日午前11時01分。

 

 福島第一原発3号機が水素爆発を起こし、給水作業を行なおうとしていた中央特殊武器防護隊の岩熊真司隊長始め隊員6人が巻き添えとなった。

 

 負傷者も出たが、幸いなことに大事には至らず、その後、岩熊らは原子力災害対処を含め、通常の職務に復帰していた。

 

 それは、東日本大震災での自衛隊の災害派遣任務も峠を越えた7月下旬。

 

 すでに大宮駐屯地に帰還していた岩熊のもとに、一通の封書が届いた。

 

 差出人は、吉田昌郎福島第一原発所長。福島第一原発で作業をしていたとは言え、岩熊は現場で吉田所長と会ったことは一度もなかった。

 

 中には便せん6枚にわたって自筆で書かれた丁寧な手紙が入っていた。人間ドックで食道がんが発見され、吉田所長が入院する4ヶ月前。

 

 体調不良を押して4号機燃料プールの補強工事を行なっている最中に書かれたものだった。

 

 

吉田所長からの手紙

 

拝啓

 

 

 私儀 東京電力福島第一原子力発電所長をしております吉田昌郎と申します。

 

 この度の私共の事故におきまして、岩熊隊長様はじめ隊員の皆様に懸命のご協力を頂きましたにもかかわらず、四名の方が負傷される事態をまねきましたことにつきまして心よりお詫び申しあげたく筆をとっております。

 

本来ならばもっと早く直接お目にかかってお詫び申しあげなければならないところ、発電所の状況が緊迫しており、それもかなわず手紙にての非礼をお許し下さい。

 

 

 三月十一日の地震津波以降プラントは極めて不安定な状況になり、原子炉を安定化すべく懸命に原子炉注水を行っておりました。

 

その中で貴部隊の御協力をいただいている最中に3号機の水素爆発が発生し部隊の皆様を危険な状況にさらすとともに、濱本詳丈様、井川晃様、岩野誠様、齊藤翔太様が負傷されましたこと、お詫びのしようもなく、ただただ皆様の命にかかわらないことを祈っておりました。

 その後 大きな怪我にもかかわらず 治療の後 部隊に復帰されたとお聞きし、胸をなでおろした次第です。

 

とは言え、ご本人様のみならず ご家族のお気持ちを察すると何ともお詫びのしようもないことと思っております。

 

 

 事故から四ヶ月以上が経ち、少しずつプラントが安定化してきておりますのは皆様のご支援のおかげであり、改めまして 岩熊様はじめ部隊の皆様に、心よりお詫び申しあげますとともに感謝の意を表したいと思います。

 

まだまだ これから復旧の道は長いと思いますが皆様のご支援のもと、ひとつずつ課題をのり超えていく所存でございます。

 

 岩熊様におかれましても地震の復興業務など ご多忙と察しますが 何卒お身体にお気をつけいただきたく、また部隊の皆様の御健勝を祈念しております。

 なお 別便にて感謝とお詫びの意を込めましてささやかな品物を皆様にお贈り致しました。

 

ご笑納頂ければ幸です。

 

                              敬具

 

平成二十三年七月二十四日

 

 

    東京電力株式会社

    福島第一原子力発電所長

 

        吉田昌郎 拝

 

 

 

陸上自衛隊 中央特殊武器防護隊長

 

岩熊真司 一等陸佐 殿

 

 

ともに戦った戦友

 別便で届けられた「ささやかなお詫びの品」は、隊員6人に宛てた「紳士物のベルト」だった。

 

 岩熊は、すぐにお礼の手紙を送った。

 

「お詫びだなんて、とんでもない。私たちは吉田所長を始め、当時福島第一原発で働いていた東京電力の皆さんを『ともに戦った戦友』だと思っています…」

 

 返信には、そう書いた。

 

 そして岩熊は今も吉田所長について、こう言っている。

 

「『ともに戦った』なんておこがましいですよね。

 

自分たちが福島第一原発のためにやったことなんて、吉田所長がやられていたことからすれば、本当にちっぽけなものです。

 

原子力災害対処って意味では、吉田所長は、それは『雲の上の人』のような存在でしたから。

 

事故のことだって東電を恨んだことなんか一度もありませんよ。

 

仮に誰かに文句があるとすれば『東電』じゃなくて、それだったら『政府』に言うのが筋でしょう。われわれはあくまで政府の要請で3号機に行ったんですから…」

武人だったと感じた

 火箱陸幕長もまた、当時、吉田所長に会う機会はなかった。

 

 しかし現地にいる田浦正人CRF副司令官から、吉田所長とは直接会って意思疎通を図っていることや、自衛隊・東電は相互に協力体制を確立していることなど、詳細な報告を受けていた。

 

 その田浦の説明からは、吉田所長が命がけで福島第一原発、いや福島の人々と土地そのものを守ろうとして指揮をとっている『覚悟』が伝わり、ある種「自衛官の気質」と相通じると、『共感』めいたものすら感じていた。

 

 火箱は、吉田所長から岩熊に手紙が送られたことを退官後まで知らなかった。

 

 「手紙を拝見して、人間的にあまりに立派な指揮官ぶりであり、まさに『武人』であったと感じました。本当に惜しい方を亡くしたと痛惜の念を禁じ得ません。ご冥福をお祈りします」

 

 それが、吉田所長の訃報に接した火箱の言葉だった。

点鬼簿

 吉田昌郎(よしだまさお)

 

1955年 2月17日 

大阪府生まれ

1977年3月

東京工業大学工学部機械物理工学科卒業

1979年

東京工業大学大学院理工学研究科原子核工学専攻修士課程修了

1979年

東京電力入社
2007年 4月 1日

執行役員原子力設備管理部長

2010年 6月

執行役員福島第一原子力発電所所長

2011年12月 1日

病気療養のため所長職を退任

2013年 7月 9日

食道がんにより永眠。享年58歳

 

 

 通産省からの内定を蹴って就職した東京電力は幹部の多くが東大卒。東工大出身の故吉田氏は、そのキャリアの多くを「現場」で過ごした。

 

 8月23日、東京・青山葬儀所で「お別れの会」がとり行われ、安倍晋三首相や菅直人元首相、海江田万里元経産相らも献花に訪れ、故人の業績を偲び、別れを惜しんだ。

 

 その遺影は、最後まで「現場の技術者」として生き抜いた故人らしく、青い東電の作業服姿だった。

 

 福島第一原発における陸上自衛隊の「最大の戦友」にして、危機に瀕したこの国を命がけで守った「現地最高指揮官」が、静かに世を去った。

 

         (次回につづく)

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