• 歴史

東日本大震災が起きてから、日本の歴史が震災という新たな角度で注目されるようになった。

 

M8.0クラスの大震災
富士山の噴火
大飢饉を招いた気候の寒冷化
など

 

かつては「大げさ」の一言で片付けられがちだった古文書の内容が、現実を目の当たりにして笑い事では済まされなくなったからだ。


歴史の記録には、我々の祖先が体験してきた貴重な記憶が詰まっている。

当連載では、それをやさしく紐解くことで、災害の今昔を学んでいきたい。

第二十八巻 幻の南海トラフ大地震

「泣くよ(794)ウグイス平安京」でお馴染みの794年は、京都に都を移し、平安時代が始まった年である。

 

 遷都前の日本は、東北で蝦夷との戦争が起きたり、天皇家の有力な血筋が途絶えたり、為政者の皇族・貴族たちにとって極めて不安な時代であった。

 

 名前から連想するような平和で安定した時代ではなく、実は不安要素が多々あり、最近、戦争や皇位継承などに加えて新たな災害があった可能性が浮上してきた。

 

 これまでの歴史では知られざる天変地異…。今回は、794年に発生していたと思しき「幻の南海トラフ大地震」について触れてみよう。

 

200年間何も揺れなかったって本当なのか?

 東日本大震災の震源であった東北・三陸沖と並び、西日本や中部日本に大きな被害をもたらす南海トラフ。
 静岡県沖の駿河湾から日本列島に沿って西は高知県沖まで震源域が広がり、東海地震、東南海地震、南海地震と3つの震源域でM8.0クラスの巨大地震が連動して発生するもので、1361年の康安地震以降、約100~150年周期で起きてきたことが確認されている。

 

 それ以前にも記録は残されており、たとえば奈良時代の684年には推定M8.25の白鳳地震が起き、その次には平安時代の887年、推定M8.0-8.5の仁和地震が発生。
 それぞれ「日本書紀」や「日本三代実録」などに記載されるほど大きな揺れであった。

 

 しかし、発生年数を数えてみればわかるが、この2つの地震は約200年という間隔が空いている。

 

 先に述べたように南海トラフ大地震の周期は約100~150年。およそ200年間、何も揺れなかったのは本当だろうか? 実は、その間にも一度発生していたのではなかろうか?

 

 と、新たに794年の南海トラフ大地震説を提言したのが、岡山大学の今津勝紀教授(日本古代史)である。

 南海トラフ大地震が発生した根拠として、今津教授が注目したのは『類聚国史』や『日本紀略』という史料であった。

 

 794年当時の歴史を紐解くには、本来、正式な国史である「日本後紀」を参照とする。
 しかし、この史料、全40巻のうち30巻分が消失しており、したがって地震の記述もなく、ただそれだけの理由でこれまで空白期間とされてきた。

 

 そこで今津教授が注目したのが、平安時代に発行された国史のダイジェスト版、『類聚国史』や『日本紀略』などだった。

 大きな出来事だけを集めたこの2つの史書ならば、失われた「日本後紀」の記事もピックアップされている。
 そんな判断のもと今津教授が史料を精査したところ、【宮殿、都や近畿地方の官舎や住居が揺れる。死者もあった】とか【3日間の殺生を禁じる命令とお経をあげる指令を全国に発令する(地震直後の対応と見られる)】など、地震を示す6つの記述を発見したのである。

 

 それぞれの記載は「大地震」と限定できるほどの情報ではなかった。しかし、南海トラフ大地震の発生周期や、地震遺跡の発掘などから、桓武天皇が平安京へ遷都する平安元年に南海トラフ大地震が起きていたことが導き出されたのだ。

 

四国の道路が大幅にルート変更した本当の理由

 こうした史料以外に、状況証拠として注目すべきが、南海トラフ大地震でも最大クラスの被害となる四国の「道路事情」である。

 

 794年以前の日本では、全国に駅路(現代ならばインターチェンジ)と駅路を結ぶ大道(現在ならば高速道路)が整備されており、四国地方には南海道が張り巡らされていた。
 ちょうど四国を一周する海べりの道路であり、昨今、ブームとなっている四国巡礼は、この南海道がルーツとなっている。

 

 南海道が四国を一周する形で整備されたのは718年のこと。
 しかし796年、つまり地震があったとされるその2年後に、突然、大幅なルート変更が実施された。史書には次のように記されている。

 

【南海道は大回りルートのため使者や伝令が通行するのが難しい。そこで旧道を廃止して、新道を通す】

 

 さらに翌797年には、【阿波(徳島)のほか、伊予(愛媛)で11、土佐(高知)で12の駅を廃止し、土佐に2つの駅を新設する】と四国中で大幅なルート変更が行われたのである。

 

 いずれも地震津波の直接的な影響が記されているワケではない。

 が、大金をかけて整備した道を理由なく捨てることは常識的に考えてもありえず、仮に道路が少し崩れたぐらいなら、補修して使うハズ。道そのものを変えるような愚行はしないだろう。

 

 しかし南海トラフ大地震が起きていたとなれば話は別だ。

 おそらく大きな揺れと、その後の大津波によって海岸部の道は至る所で大きく破損し、内陸へとルート変更せざるを得なかったに違いない。

 

 あるいは通行手段を「海路」へと変更するなりして、対処するしかなかったはずだ。

 

 そして人々が海路を発展させた結果、意外な副産物が生まれた可能性が見受けられる。

 

 

時間のかかる船旅だからこそ日記を書けた

 皆さんは、平安時代に記された「土佐日記」(935年)をご存知だろうか?

 土佐の国司(県知事)の任を終えた著者の紀貫之が、京都へ戻るまでの55日間を記した紀行文で、彼は土佐から京都までの帰り道を「海路」を使っている。

 

 現在の高知県南国市辺りから太平洋に出航した紀貫之は、同県の高知市や室戸市など数カ所の港に立ち寄りながら、その後は徳島県の海岸に沿って北上し、鳴門海峡から大阪湾へ渡って、「泉の灘(大阪府南西部)」に上陸した。

 

 奈良時代までの都と土佐の往復は、瀬戸内海を船で渡る以外は、通常、陸路で行き来していた。

 

 しかし、紀貫之は船旅を選んだ。というより、地震の影響により陸路を進めなかった。

 8世紀末に土佐への陸路が大幅に縮小され、それから100年以上が経過しても、女性を含む国司らの一団が安全に通行できるルートは海路以外になかったのだ。また、この間に発生した887年の仁和地震で津波が押し寄せたことも影響しているだろう。 

 

 

 紀貫之は旅程の55日間のうち、41日間を船上で過ごしている。陸路であれば、ここまでノンビリと思索にふけ、筆をとることは叶わなかったはずだ。

「土佐日記」はこれまで漢文体で記されていた日記が初めて平仮名で記された文学として知られるが※1、こうした船旅のゆとりが著者の遊び心やユニークな発想を助長したのかもしれない。

 そう考えると地震によって陸路が塞がれたことが紀貫之に船旅を選ばせ、後世に残る名作を生ませたと言うのは、いささか強引であろうか。

 

※1「男もすなる日記といふものを女もしてみんとてするなり」の書き出しで始まるこの日記は、後世の作家たちに影響を与えたとされる

 

文・恵美嘉樹(えみよしき)
作家。歴史研究の最前線の成果を社会に還元する二人組。
著書に『全国「一の宮」徹底ガイド』(PHP文庫)、『最新日本古代史の謎』(学研)など。

 

参考文献

日本歴史災害事典(吉川弘文館)

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