• 歴史

東日本大震災が起きてから、日本の歴史が震災という新たな角度で注目されるようになった。

 

M8.0クラスの大震災
富士山の噴火
大飢饉を招いた気候の寒冷化
など

 

かつては「大げさ」の一言で片付けられがちだった古文書の内容が、現実を目の当たりにして笑い事では済まされなくなったからだ。


歴史の記録には、我々の祖先が体験してきた貴重な記憶が詰まっている。

当連載では、それをやさしく紐解くことで、災害の今昔を学んでいきたい。

第二十九巻 数十万の餓死者を弔う 隅田川花火大会

 東京の夏の風物詩、隅田川の花火大会は江戸時代から続く伝統行事で、今も毎年数十万人が訪れる一大イベントだが、その由来を知っている人は案外少ない。

 

 実はこの花火、1732年に起きた享保の飢饉で、死者供養と災厄除去を願うため、その翌年に打ち上げられたのが始まりだった。

 

 教科書にも出てくる、江戸時代の飢饉とはいかなるものだったのか。
 今回は暴れん坊将軍でお馴染み、徳川吉宗の時代に起きた享保の飢饉を振り返ってみよう。

 

福岡藩では死者6~7万人との試算も

 飢饉とは一体何なのか?
 歴史の教科書などでは、悪天候や虫害によって農作物が不作になることと記されているが、その真の恐ろしさは、放置しておけば一過性のもので終わらないことだ。

 

 例えば今年が凶作だとすれば、その年に飢えを耐えれば終わりではなく、食料不足が食物高騰を引き起こし、農家が種もみを食してしまうため、その翌年の収穫量が減り、また食料が不足して…と負のサイクルが繰り返されるのである。

 つまり最低でも2年間は食料不足となり、栄養状態の悪化で疫病が流行ると、それによって死者が増え、さらに衛生状況が悪化してまた疫病が蔓延して死者が・・・と、こちらも死の悪循環を引き起こす。

 

 その点、享保の飢饉における江戸幕府の対応は迅速かつ的確だったが、その説明は後に回すとして、まずは享保の飢饉の発生原因から見てみよう。

 

 享保の飢饉の主な原因となったのは、冷害と虫害である。
 江戸時代は40~50年ごとに温暖な気候と寒冷な気候が繰り返されていたが、1732年は、 九州、中国、四国地方を中心に、西日本全域が異常な冷害に襲われた。

 冷たい雨が地上の作物に悪影響を与え、そこへ運悪く稲の害虫であるウンカが大発生。洪水も併発して田畑は荒れ果て、農作物は大打撃を受けたのである。


 全国各藩の公式記録を合算すると、飢えに苦しんだ人は264万6000人で、餓死者は1万2000人、死んだ牛馬は1万4200頭とされている。

 

 が、その実態はもっと悲惨なものだった。
 当時は、飢餓が発生したり、餓死者が多すぎると、幕府に土地を召し上げられたり、何らかのペナルティを負わされることがあったため、諸藩は被害を少なめに報告したからだ。

 

 現代の研究では、たとえば福岡藩では死亡率が20%を超え、死者は6~7万人に及び、さらに全国での死者総数は数十万人に達したとの試算もされている。

 江戸時代の人口は最盛期で3000万人ほどと目されるから、数%の人間がたった一度の飢饉で亡くなったのだ。

 

江戸の町で初めて「打ちこわし」が起きた

 飢饉の発生後、時の将軍・徳川吉宗は、この飢饉が「負の連鎖」に陥ることがないよう、すぐに被災地へ役人を派遣。東北・関東地方などの米を西日本に回し、さらに幕府からも多量の救援米を送った。

 その結果、死者は最小限で食い止められた。被災地へ迅速に食料を回したため、種もみが食い潰されるということもなく、飢饉の翌年は、打って変わって豊作にも恵まれた。

 

 しかし、一度狂った歯車は、そう簡単には修正されない。西日本へ米を回した結果、江戸を中心に東日本では米価が高騰し、江戸の町では「打ちこわし」が発生したのである。

 

「打ちこわし」とは、生活に困窮した農民たちが豪商などを襲い、金銀やコメを奪う行為のことで、このときは米を買い占めたと噂された日本橋の商人が1700人の農民に襲われた。

「大岡越前」で有名な大岡忠相が、騒動の静まるのを待って首謀者を裁判にかけ、事態はなんとか収集させたが、この後、江戸時代ではたびたび米を巡って庶民が「打ちこわし」を敢行することになる。

 

 当時の稲作の出来不出来は、気候に影響されやすく、非常に不安定なもので、それに釣られて米の価格が乱高下すると庶民の食生活は苦しくなった。

 

 そのため、幕府や各藩では、非常時の食料対策が積極的に奨励された。

 穀類、キノコ、魚、鳥、虫、蛇など、諸国のあらゆる産物を調べさせ、それが食べられるかどうかを記録させた。

 

 たとえば福岡の豪農・大浜利兵衛は、「享保十七壬子大変記」の中で次のような一文を書き残している。

 

「稲が腐った時に、すぐに蕎麦をたくさん蒔いたものは、年内に収穫でき、生き延びることができた」

 

 普段は口にしないものでも、いざというときには食べなければならない。そのための準備や覚悟を普段から心がけさせたのである。

 

 さらに、享保の飢饉の主な原因となった害虫駆除も研究が進み、その結果、水田に鯨油を用いてウンカを駆除する方法が全国に広まった。
 稲についたウンカを水田にはたき落とし、あらかじめクジラの油を注いでいた水の中で窒息死させるという方法である。
 駆除後の油処理が気になるが、実際、かなりの効果があったようだ。

 

 

 

  浴衣姿の家族やカップルが、焼きそばやお好み焼きを食しながら、色とりどりの打ち上げ花火に嬌声を上げる。

 

 隅田川の花火大会が、まさか数十万人もの「飢饉の死者を弔う」ためのものだったなんて、参加者の大半は知ることもなく、今後も夏の風物詩として開催されていくのであろう。

 

 むろん、それを咎める気は毛頭ない。

 

 ただ、吉宗(江戸幕府)の粋な計らいによって鎮魂の花火が打ち上げられ※1、それが現在まで続いているという歴史的背景を知っていれば、花火の彩りもより一層味わいのあるものになるんじゃないかなぁ、と少しもったいない気にさせられるだけである。

 

 

※1 花火の主催者が江戸幕府かどうかは不明であるが、徳川吉宗の命で、餓死者の冥福を祈る儀礼が執り行われ、花火が連日上げられた

文・恵美嘉樹(えみよしき)
作家。歴史研究の最前線の成果を社会に還元する二人組。
著書に『全国「一の宮」徹底ガイド』(PHP文庫)、『最新日本古代史の謎』(学研)など。

 

【参考文献】
倉地克直『日本の歴史11 徳川社会のゆらぎ』(小学館)
渡辺尚志『日本人は災害からどう復興したのか』(農文協)

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