• 歴史

東日本大震災が起きてから、日本の歴史が震災という新たな角度で注目されるようになった。

 

M8.0クラスの大震災
富士山の噴火
大飢饉を招いた気候の寒冷化
など

 

かつては「大げさ」の一言で片付けられがちだった古文書の内容が、現実を目の当たりにして笑い事では済まされなくなったからだ。


歴史の記録には、我々の祖先が体験してきた貴重な記憶が詰まっている。

当連載では、それをやさしく紐解くことで、災害の今昔を学んでいきたい。

第三十一巻 30万人の死者を出した 天明の飢饉

 歌舞伎や絵画、俳句など、多様な文化で華やいだ江戸時代には、いかにも平和で豊かなイメージがある。

 

 たしかに戦国時代のような争い事はなくなり、幕末まで大きな内乱も起きなかった。が、食料事情については、そう甘くない。

 

 稲作に頼っていた当時の生活では、ひとたび冷害や虫害が起きると、すぐに「飢饉」が発生。
 食べ物がないから、農家が種もみを食べてしまい、翌年も飢饉が発生して「負の連鎖」が止まらなくなる――と、当連載の第二十九巻 数十万の餓死者を弔う 隅田川花火大会(1732年享保の飢饉)でも、その恐怖に触れたばかりである。

 

 享保の飢饉のときは、8代将軍吉宗の迅速な判断によって最悪の事態は避けられた。そしてそれ以降、幕府や農村では積極的に飢饉対策が進められた。

 

 田んぼや畑の害虫駆除。水不足を防ぐための灌漑施設。寒さに強い稲の育成。

 

 こうした努力により享保の飢饉以降、西日本では食料事情が改善していった一方、東北ではどうしても冷害から逃れられず、小さな危機は度々起こっていた。

 

 東北地方では、山を越えて吹く冷たい風「ヤマセ(山背)」が原因で不作となり、常に飢饉の恐怖に悩まされていたのである。

 

 そして享保の飢饉から半世紀が経過した1782年、「天明の飢饉」が発生した。

 30万人以上の死者が出る、未曾有の大惨事だった。

 

空腹に耐えかねて家族の遺体を・・・

 1782年は自然災害の連続だった。

 

 西日本を中心に、大雨による洪水が多発し、大地震も発生。約半世紀、飢饉の苦しみから解放されていた西日本でも、さすがに想定以上の事態で深刻なコメ不足に陥り、しかも、悪天候は翌1783年になっても続いた。
 当時の記録によると、6月になっても冬物の着物が必要なほどの寒さだったという。

 

 こうした冷害に加えて、関東地方では1783年7月に浅間山が大噴火。火山灰のために田畑が荒れ、特に群馬県の水田が壊滅的な被害を受けたことは当連載でも記した(第十八巻 うどんは香川だけじゃない!群馬の食文化を変えた浅間山)。

 

 折からのヤマセに悩まされていた東北地方。浅間山噴火の関東地方。そして冷害に襲われた西日本。

 

 天明の飢饉とは、こうした複合的な災害に見舞われたのが主要な原因だったが、その最悪の状況に拍車をかけたのが「カネに目がくらんだ」商人たちだった。

 わずかに残っていたコメを買い漁って高値で販売したため、人々は種もみを食し、不作のループがとまらない「負の連鎖」へ。極限にまで飢えた各地の村々では、「もはや人ではない」、まさに餓鬼地獄へと発展していった。


 青森県八戸での出来事だ。とある村の6人家族が、飢饉のために全員死んでしまった。

 そこで、隣村に嫁いでいた一家の娘が葬儀のために一時帰省し、家族全員の死体を焼いたところで、突如、禁断の行為に走りだす。そう、彼女は空腹に耐えかねて、身内の遺体を食べてしまったのだ。

 

 何かが壊れてしまったのだろう。
 娘はそれ以来、人肉を求めて村内を徘徊するようになり、危機感を覚えた村人たちによって処刑されてしまう。

 

 むろん、江戸時代といえども、平時であれば、このような私刑は許されない。しかし、飢饉などの非常時においては、本来は取り締まるはずの藩も黙認するしかなかったようだ。

 

 たとえば、とある村では、食物を盗んだ村人が、穀物などを保存する袋(「かます」という)に入れられ、生きたまま川に投じられて溺死した。
 こうした私的制裁はカタチを変えて各地でも行われ、ときには、生き残った家族からの報復を恐れ、一家全員を虐殺したという話もあるほど。
 村人たちによって殺された者は、餓死者よりも多かったのではないか?と囁かれるほど、頻繁に行われた。

 

 餓死は、何かのキッカケですぐに生命を落とすのではなく、ジワジワと精神を蝕みながら、やがて死へ至る。
 そんな異常な空間にいては、人心が崩壊するのも無理はなく、庶民たちは心身ともに苦しみながら死を迎えた。

 

 その数、推定で30万人。まさに地獄絵図だった。

 

被害者を一人も出さない奇跡の藩もあった

 何年も地獄が続く一方で、天明の飢饉の様子を記録し、次世代に活かそうとした人もいた。

 宮城県石巻市の記録を伝える『年代記』からその一部を抜粋してみよう。

 

『天明4年(1784年)。どこでも飢えて死亡する者が多い。そのうえ疫病が流行し、米類を食べていないために体力がなく、仙台藩領内の死亡者は数知れぬありさまである。(略)
(仙台城下に)藩のお助け小屋が急増され、そこで粥が炊き出された。しかし、飢えている者はすべて去年のうちから米類を食べておらず、病に冒されたり、体力が衰えている者たちで、にわかに米を食べると、すぐに命を落とす。(略)
 浜の方の地域では、2月から赤魚がとれはじめ、食べることができ、持ち直した。4月からはマグロもとれるようになる』

 

 行間から痛切な想いが滲み出ている。

 

『年代記』には稲作だけに頼る危険性が説かれ、「大麦・小麦・そばなどは、毎年夏の土用の日に干すべし」といった穀物の保存方法から、わらびやタニシの調理法、ごぼう・にんじん・大根の保存法など、各種の備蓄食料マニュアルが記されている。

 

 実は、1732年享保の飢饉の後にも、こうした防災対策は進められていた。が、このときは徳川吉宗の政策により飢饉の被害が最小限で済み、これは筆者の想像だが、各藩・各人で防災対策が徹底されなかったのかもしれない。言わば油断していたのだ。

 

 しかし、その一方で被害者を一人も出さないという奇跡のような藩もあった。

 

 後に名君と讃えられる上杉鷹山の米沢藩や、松平定信の白河藩。これらの藩では、日頃から他藩よりも徹底した備蓄対策を行っていたため、一人の餓死者も出さずに済んでいる。

 そして松平定信は、その功績が買われて1787年に江戸幕府の老中となり、寛政の改革を断行。農業に重きを置いた重商主義政策で、天明の飢饉からも脱した。

 

 それは1788年、天明の飢饉が発生してから、実に6年もの歳月が流れてからのことだった。

 

著者紹介
文・恵美嘉樹(えみよしき)
作家。歴史研究の最前線の成果を社会に還元する二人組。
著書に『全国「一の宮」徹底ガイド』(PHP文庫)、『最新日本古代史の謎』(学研)など。

 

【参考文献】
渡辺尚志『日本人は災害からどう復興したのか』(農文協)
菊池勇夫『近世の飢饉』(吉川弘文館)
菊池勇夫『飢饉の社会史』(校倉書房)
「年代記」(『日本農書全集』67、農文協)

バックナンバー

ページのTOPへ