歴史

防災歳時記9月23日 文明開化の象徴 断髪令が発令される

 今から142年前、1871年の今日9月23日、近代国家を目指す明治政府から「断髪令」が発令された。

 

 頭頂部の髪を剃る月代(さかやき)と、そこに束ねた毛髪をのせる丁髷(ちょんまげ)という髪型が欧米人からは奇異な目で見られるとし、西欧化を進める政府は文化面での改革も必須と考えたのである。

 

「髪を切れ!」という命令ではなく「髪型を自由にしなさい」と緩やかな内容だったため、発令当初はさほど広まらなかったが、1873年に明治天皇が現代風のヘアスタイルに変えると一斉に普及し、文明開化の象徴とも言われるようになった。

 

 髪型を変える程度で大袈裟な。

 

 と、思われるかもしれないが、当時、西欧文明見聞のためアメリカを訪問していた明治政府の重鎮・岩倉具視が、訪問先のシカゴで丁髷を落とし、衣装を和服から洋服に変えたことからして、「欧米列強に追いつき追い越せ」という日本にとって、身なりから欧米社会に肩を並べようとすることは精神的に大きな改革だったのだろう。同じく伊藤博文や大久保利通なども、この使節団同行時には髪型を現代風に整えている。

 

「散切頭(ザンギリあたま)をたたいて見れば文明開化の音がする」

 

 歴史の教科書にも登場する、この有名な都々逸(七・七・七・五で歌う当時の流行歌)は、政府にとっては笑い事じゃなかった。

 そもそも、なぜ丁髷・月代という奇抜な髪型が当時の日本に広まっていたのだろうか?

 

 一説には、戦国時代に登場した鉄砲の影響だという。この新兵器から身を守るため頭部全体をスッポリと覆う兜が武士の間で使われるようになり、その結果、髪の毛を残したままでは頭が痒くて仕方なく、頭頂部が蒸れないよう月代にしたのである。

 

 しかも、である。当初は髪の毛を一本一本、毛抜きで抜いていたため「頭部が血だらけになった」という壮絶な様子が江戸初期の『慶長見聞集』に記されているほど。

 

 そんな苦行であったから、戦国時代の武士の間で丁髷・月代は「主君のために戦う忠義の証」としての意味合いも持たれるようになり、戦争のない江戸時代でもその風習は続き、いつしか庶民へも広がっていった(戦国末期からは剃られるようになった)。

 

 丁髷・月代にそんな意味があったとは、もしかしたら幕末から明治にかけての人々も知らなかったかもしれない。

 

 ただ、長い間の常識・慣例を打ち破るには、それなりの決意が必要で、当時の明治天皇や岩倉具視、伊藤博文などに影響を受けて髪型を変えた庶民たちは、新しいリーダーたちに羨望と尊敬の眼差しを向けていたのだろう。

 

 幕末と現代では時代背景があまりに違う。それは重々承知しているが、今の日本に身なり一つで世の中を動かせ・・・いや、せめて庶民に対して何らかの影響力を持ち得るリーダーを求めるのは酷な話だろうか。

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