• 歴史

東日本大震災が起きてから、日本の歴史が震災という新たな角度で注目されるようになった。

 

M8.0クラスの大震災
富士山の噴火
大飢饉を招いた気候の寒冷化
など

 

かつては「大げさ」の一言で片付けられがちだった古文書の内容が、現実を目の当たりにして笑い事では済まされなくなったからだ。


歴史の記録には、我々の祖先が体験してきた貴重な記憶が詰まっている。

当連載では、それをやさしく紐解くことで、災害の今昔を学んでいきたい。

第八巻 幕末に起きた大地震と井伊直弼の苦悩

 江戸から明治へ。我が国が近代化への維新を成し遂げたチカラは何だろうか。


 坂本龍馬など、改革の志士たちの志か? それともペリーの黒船による外圧か?

 

 幕末は、派手な事件にばかりスポットがあたり、なかなか語られることはないが、忘れてならないのが、当時、立て続けに起きた南海トラフや首都直下型などの大地震。そして、政治家として悪名高い井伊直弼(いいなおすけ)の存在である。

 

 

 

太平の眠りを覚ます蒸気船

 1853年5月、ペリーが浦賀に来航した。この、たった4隻の黒船に幕府は萎縮し、その屈辱的な外交姿勢が結果的に幕府の威信を大きく低下させ、日本は明治維新へ突き進んだという歴史的な見方がある。
 つまり、外圧によって改革が断行されたということであり、黒船が来航した後、以下のような狂歌が流行した。

 

太平の
眠りを覚ます
上喜撰(じょうきせん)
たった四はいで
夜も寝られず

 

「上喜撰」とは宇治の高級茶のこと。お茶にはカフェインが含まれているため飲めば眠りにくくなり、それが「蒸気船」の黒船で不眠になることと掛かっているのである。


 しかしこのとき、江戸の将軍から庶民まで夜も眠れなかったったのは、そのせいだけではなさそうだ。幕末期もまた、大地震が頻発していたのである。


 外交と地震はいかに織り成されて、時代は進んでいったのか。当時の年表をざっと追ってみたい。

 

1853年3月 小田原(神奈川県)地震
     5月 ペリー、来航
1854年1月 ペリー、再来航
     3月 ペリーと日米和親条約
     4月 井伊直弼、京都守護に
     7月 伊賀上野(三重県)地震※内陸型
    12月 安政東海・南海地震津波※南海トラフ海溝型
1855年11月 安政江戸地震※首都圏直下型
1856年8月 米国ハリスが下田(静岡県)に来航
1857年4月 井伊直弼、江戸に戻る
1858年4月 飛越(岐阜・富山県)地震
1858年7月 日米修好通商条約締結※天皇の勅許=許可を得ずに断行
1858~59年 安政の大獄
1860年3月 桜田門外の変で、井伊直弼暗殺される

 

 まるでタイミングを計ったかのように地震と外圧がやってきている。


 特にヒドかったのが1854年から1855年にかけて。伊賀の内陸地震の後、南海トラフ地震津波により太平洋岸が大被害を受け、その復興をする間もなく今度は首都の江戸で直下型地震が直撃したのである。

 

 1854年、江戸幕府がアッサリと開国を認め、日米和親条約を結んだ理由に、『太平の世に慣れきって戦う心を失ったから』と評する意見もある。が、江戸と大阪で大地震という国家の危機的状況にあっては、数隻の外国船と衝突する余裕さえなかった可能性も十分に考えられる。

 

 このとき幕府を主導していたのは、安政の大獄や桜田門外の変で有名な井伊直弼。彼は、往々にして悪者の立場で描かれがちだが、果たしてそうなのか。


 私はNOと答えたい。

 

大坂と江戸が立て続けに被災した

 たとえ武家政権といえども、江戸幕府はただ武力を背景に威張っていればよい存在ではなかった。

 

 民の命と財産を守るのも大きな役目。そのため当時の侍たちはいざというとき、「武士の道を突き進めばいいか。政治家としての責任感を全うするか」、2つしかない選択肢を突きつけられた。
 幕末に、武士道を突き進んだ者の多くは、勝者、敗者にかかわらず歴史に高名を残しがちだが、後者には往々にして歴史的評価の低い運命が待っていた。

 

 政治家としての責任感を全うした代表が、彦根藩主(滋賀県)であり、幕府の大老を務めた井伊直弼である。


 開国を求めるアメリカのペリーに対し、幕府では、開国派の井伊直弼と、鎖国派の水戸藩(茨城県)徳川斉昭の間で激論が展開された。
 軍配が上がったのは井伊直弼だった。おそらくやその見聞の広さから周囲も認めざるを得なかったのだろう。

 

 井伊直弼は、1854年3月に日米和親条約を締結後、京都守護に赴任をして、同年12月、安政東海・南海地震を経験した。高知県で最大震度7(推定)など西日本を大きな揺れが襲い、建物は多数倒壊。太平洋沿岸部の高知では16メートルを記録する巨大津波も到来している。
 本震から約2時間後には、大坂にも大津波が押し寄せ、揺れや火災から逃れるため川舟に避難していた人たちが呑み込まれ、同地域だけで341人が犠牲になった。

 

 井伊直弼はこの大被害を目の当たりにし、京都守護として近畿地方の復興に力を入れた。
 現代の東日本大震災・被災地を見て頂ければおわかりのとおり、巨大地震から回復することは容易ではない。ましてや時は江戸時代。東海・南海地震津波への復興が遅々として進まないその翌年11月、今度は首都直下型地震の「安政江戸地震」が発生した。
 このときは、特に下町で被害が大きく、家屋の全焼・焼失が1万4000戸以上で死者は推定7000人~1万人に達したという。

 

 

 そんな大混乱直後の1856年に、今度はアメリカの総領事ハリスが伊豆の下田に来航し、そのまま居座り続けるのだから幕府にとってはたまったもんじゃない。この米国人、地元の寺を総領事館とし、日本にとって不利な貿易を行うため、無茶な条約※1をしつこく要求し続けた。

 

 前回、締結した日米和親条約が、水や食料、寄港地を提供するだけの、言わば体裁だけの開国だったのに対し、今度は本格的な国交に発展しようとしていた。江戸幕府の鎖国体制が完全に崩されようとしたのである。

 

※1 港や市場を開放するという自由貿易だが、実態は日本の関税自主権を否定し、米国に治外法権を求める不平等条約だった

 

 

 

「戦争にならぬよう、自分が罪を受ける」

 井伊直弼が江戸に戻ったのは、そんな情勢下の1857年。地震で大きな被害を受けた日本の二大商都、大坂と江戸の惨状を知っている直弼は、なおも鎖国を主張する大名や幕臣を論破して、幕府の外交政策を本格的な開国へと舵を切らせた。

 

 多くの大名や幕臣たちは、震災被害を受けた庶民たちの鬱憤が自分たちに向かわぬよう、外国を仮想敵国として排外主義を表明していた。

 が、井伊直弼は大局的に見て、開放政策を押し切った。日本の復興、自然の猛威に抗うためには、外国との戦いではなく、むしろその力を取り入れた方がよい。

 それは苦渋の決断であっただろう。国内に多くの敵を作りながら、私心無き行動を続ける直弼は、天皇の勅許(許可)を得られないまま(天皇や公家らは開国に大反対)、ハリスと日米修好通商条約の締結を強行。

 

 このとき直弼は、自身の部下にまで、その行動の真意を追及されたという。

 

「勅許がないことは問題だ。あとで反対派から糾弾されます」

 

 これに対し直弼は、現代人の多くが知らない、国家を慮った発言を返している。

 

「戦争にならないよう、そして日本という国が恥をかかないよう、自分はその罪は甘んじて受ける」

 

 歴史的に見れば、井伊直弼が開国したことは、決して間違っちゃいない。が、それはあくまで未来を知った者の目線。当時の彼にとって一寸先はまさしく暗闇であり、その決断には凄まじい覚悟を伴ったはずである。

 

 実際、直弼は部下の予想通り反対派から様々な追い落としや謀略を図られ、悪政として名高い弾圧「安政の大獄」を実行。そして1860年3月、最も厳しく処分を断行していた水戸藩の浪士たちに桜田門外で襲撃され、その生涯に幕を閉じるのである。

 

 

 国内には少数の味方しかおらず、外国人からは開国のプレッシャーを受け、庶民にも地震災害の恨みを買う。

 それでも果断に政策を実行した井伊直弼という烈士は、やはり悪の政治家なのであろうか。広い視野で歴史を掘り下げてみれば、教科書ではわからない真実が見えてくることもあると私は思う。

 

 

 

著者紹介
文・恵美嘉樹(えみよしき)
作家。歴史研究の最前線の成果を社会に還元する二人組。
著書に『全国「一の宮」徹底ガイド』(PHP文庫)、『最新日本古代史の謎』(学研)など。
好きな幕末志士は江藤新平。

バックナンバー

ページのTOPへ