• 歴史

東日本大震災が起きてから、日本の歴史が震災という新たな角度で注目されるようになった。

 

M8.0クラスの大震災
富士山の噴火
大飢饉を招いた気候の寒冷化
など

 

かつては「大げさ」の一言で片付けられがちだった古文書の内容が、現実を目の当たりにして笑い事では済まされなくなったからだ。


歴史の記録には、我々の祖先が体験してきた貴重な記憶が詰まっている。

当連載では、それをやさしく紐解くことで、災害の今昔を学んでいきたい。

第九巻 怨霊と災害から偶然生まれた千年の都・京都

「鳴くよウグイス平安京」と言えば、誰もが覚えている歴史年号の一つであろう。

 ご存知、桓武天皇が京都に設立した日本最長の都である。


 今回ご紹介させていただくのは、そんな桓武天皇と平安京にまつわる、ちょっとダークなお話。これまでの連載と違い、大きな自然災害は出てこないが、我が国の歴史と地震が密接に関わっていた面白い例であり、とても興味深い“事件”でもある。

 

 

忘れちゃいけない長岡京

 京都が都として産声をあげたのは794年。第50代桓武天皇が遷都してからのことである。
 以来、この地は日本の政を司り、源頼朝が鎌倉に、徳川家康が江戸に幕府を開こうとも、天皇のいる中心地として脈々と続いていた。
 歴史の授業では「奈良時代&平安時代」とセットで覚えることも多いため、平城京から平安京へ直接遷都したと思われる方もいるだろう。


 が、その間、怨霊と自然災害のために、たった10年で幕を閉じた長岡京が存在したのを忘れてはならない。

 

 長岡京は、784年に桓武天皇が京都府の向日市・長岡京市にまたがって建設した都で、位置は京都市から南へ約10キロ。街の規模は平安京とほぼ同じであり、今となっては表舞台に出ることはほとんどない。


 長岡京はなぜ、短期間で移動してしまったのか? その背景には、皇位継承などの政治問題とドロドロに絡みついた自然災害があった。

 まるで刑事ドラマのような、当時の政情を見てみよう。

 

 

 

都造営の責任者・藤原種継が暗殺される

 781年4月、桓武天皇が即位した際、次の皇太子になったのは、弟の早良(さわら)親王であった。
 皇太子とは次期天皇を約束された身分のこと。つまり桓武天皇の次は息子ではなく弟の即位が決まっていた。


 しかし784年、それを覆す事件が起きる。


 桓武天皇が平城京から長岡京へ遷すために造営事業を開始した頃、その土木事業の責任者で側近の藤原種継(たねつぐ)が暗殺されたのである。
 天皇悲願の大プロジェクトを邪魔した首謀者は、驚くべきことに、皇太子の早良親王。この一件により、彼は身分を剥奪され、いったん事態は収束するかと思われた。

 

 が、早良親王は無実を訴え続けた。それも飲食を断つという激しい「ハンガーストライキ」を行い、10日後に衰弱死してしまったのである。主犯にされたのが、よほど腹に据えかねたのだろうか。この一件に関する歴史的証拠はないが、彼はどうやら冤罪だったようだ。


 いずれにせよ、この一連の流れで政治的に有利なポジションに立ったのは他ならぬ桓武天皇であった。

 

 莫大な費用のかかる長岡京遷都に反対だった臣下を排除し、すぐにでも即位争いに名乗りをあげそうな弟がいなくなったのだから。
 刑事ドラマで真犯人をさがせば、真っ先に桓武天皇が疑われるような、そんな見事な展開。そして事実はそこで終わらないから、ドラマよりも奇なのである。

 

 

 

霧島山が噴火し、山城国で立て続けに地震が

 責任者の暗殺や皇太子の死など。ハタから見ればケチがついた新首都・長岡京を、どうにか軌道に乗せたと思った788年7月、九州の霧島山が噴火した。
 歴史書には「火炎が燃え上がり、轟音を響かせ黒煙を上げた」との様子が残されている。第七巻『大仏様、助けて!』の回で触れたように、当時の天変地異は天皇のせいにされるという不文律があった。ただ、霧島山の噴火は九州という遠方の地であるし、この頃の桓武天皇にはまだ余裕があったはずだ。


 しかし、794年7月、さすがに今度は無視できない事情が起きた。他ならぬ長岡京が地震に襲われたのである。

 

 歴史資料集「類聚国史」によると、792年1月、793年8月、10月、794年1月、6月、9月と立て続けに地震の記録が残されている。

 たまたま正式な歴史書「続日本紀」が791年で編纂(へんさん)が終わり、正確な情報が残っていないため、地震の規模や被害の大きさは不明だが、最初の3つは新都のあった山城国(京都府)で揺れが観測されている。

 

 この連続地震の3か月後に、桓武天皇は平安京遷都を断行。最終的に長岡京は諦めた。

 

 

実は弟の冤罪を知っていた?

 もともと長岡京への遷都すら、反対派を粛清しなければならないほど費用のかかった一大事業なのである。いくら地震に襲われたとはいえ、それだけで思い入れの強い長岡京を捨て、平安京に走るのは、あまりに不自然ではなかろうか。何か他に理由があるのでは?

 

 桓武天皇が長岡京を捨てた最大の要因は、「地震が起きたのは早良親王の怨霊の仕業と考えた」からであった。

 

 バカバカしいと思うなかれ。そこには歴史の教科書では決して触れられない、桓武天皇の心の闇が潜んでいる。

 

 当時、冤罪によって死んだ人物は怨霊になって現れるという常識があった。つまり桓武天皇が「弟は怨霊となった」と考えたということは、すなわち「弟が冤罪であったことを知っていた」ということを意味する。
 状況証拠だけで考えれば、桓武天皇は長岡京を推進するあまり、事件を裏で動かしていた可能性すらある。さすがに推測だけでそこまで言い切るのは強引かもしれないが、弟の早良親王が冤罪で死していくのを黙って見過ごしたのだけは否定できない。

 

 

 平安京遷都後、早良にかわって皇太子となった桓武天皇の第一皇子・安殿(あて)親王こと後の平城(へいぜい)天皇が病に伏すと、早良の祟りによるものだとの占い結果がでた。これに慌てた朝廷は、彼の霊を鎮めようと数々の儀式を行い、ついには、「崇道天皇」という称号を送り、「天皇になった人物」として丁重に埋葬もしている。


 怨霊と、それが引き起こした自然災害により長岡京は捨てられ、一時的に避難した平安京が千年以上も続く。歴史とはかくも不思議なものである。

著者紹介
文・恵美嘉樹(えみよしき)
作家。歴史研究の最前線の成果を社会に還元する二人組。
著書に『全国「一の宮」徹底ガイド』(PHP文庫)、『最新日本古代史の謎』(学研)など。

好きな都は飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや・名前の響きだけで選んでます…)。

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