• 歴史

東日本大震災が起きてから、日本の歴史が震災という新たな角度で注目されるようになった。

 

M8.0クラスの大震災
富士山の噴火
大飢饉を招いた気候の寒冷化
など

 

かつては「大げさ」の一言で片付けられがちだった古文書の内容が、現実を目の当たりにして笑い事では済まされなくなったからだ。


歴史の記録には、我々の祖先が体験してきた貴重な記憶が詰まっている。

当連載では、それをやさしく紐解くことで、災害の今昔を学んでいきたい。

第十巻 縄文人と弥生人から見る災害と日本人のルーツ

 東日本大震災の津波は「千年に一度」と呼ばれている。


 よく引き合いに出されるのは869年の貞観地震であるが、そこから単純に千年ずつ遡っていくと弥生時代を飛び越えて縄文時代へ突入してしまう。
 こと地震に関して言えば、これらの時代の注目度は低い。当然ながら文字での記録がないためだ。


 しかし、近年の考古学や地質学の進展によって、有史以前の地震津波の姿は、少しずつ浮かび上がってきている。

 

3500年前に津波で死んだ9名の縄文人

 縄文時代の津波の実態を具体的に想定できる数少ない場所は、日本三景・松島湾に浮かぶ最大の島「宮戸島」(宮城県東松島市)である。

 

 2001年と2002年に行われた発掘調査で、同島から4600年前と3500年前の津波堆積物が見つかった(この2つの間隔もおよそ千年である)。そして2010年秋の発掘では、津波で亡くなった可能性のある人骨が9体も出てきた。この発見は大きな一歩だった。


 というのも、津波によって縄文人が死亡したのが立証されれば本邦初。この人骨が本物の被災者かどうか、依然として議論は続いているが、出土した人骨がいずれも3500年前の頃であるのは間違いなく、先の堆積物調査の結果とも合致している。最大のポイントは人骨が「見つかった場所」だ。


 発掘場所は比較的標高の高いところで、一見、津波とは無縁の場所だった。が、発掘の直後に東日本大震災が起きたことにより、海水に飲み込まれることが判明。『津波によって凹凸の激しくなった地面に9体の遺体が引っかかっていた』という推論の後押しとなったのである。

 



千年規模の地震をわかっていた

 そして今回の発見により、これまでの東北縄文人研究における大きな謎もひとつ解明されている。なぜ彼らは松島湾や三陸沿岸近くの便利な低地ではなく、徒歩で30~60分もかかる不便な高台に住んでいたのか。その理由だ。


 縄文人の食生活は我々の想像を超える豊かさで、たとえば魚介類一つとっても、アサリ、イワシ、ふぐ、マグロ、クロダイ、ブリ、そしてウニまで食していた痕跡が残されている。
 皆さんご存知、派手な装飾が施された縄文土器は単なる調理器具だけではなく、呪術的な意味合いも持ち、海を始めとした大自然の恵みへの感謝の意も込められていた。


 それなのに彼らは海辺での便利な生活は選ばず、少し離れた丘などでドングリを採取し、山中のイノシシなども食しながら暮らしていた。一体ナゼなのか?


 もう説明は不要だろう。東北の縄文人は、千年規模の地震を恐れて、高台での暮らしを選んだ可能性が高いのだ。


 我々よりはるかにテクノロジーの劣る彼らが、どうやって千年の地震を後世に伝え、それを遵守してきたか。こればかりは謎だが、海辺に住む便利さを捨て、津波から逃げたことは間違いない。
 高台には神。海には悪魔。そんな言い伝えでもあったのだろうか。いずれにせよ、いつ来るか分からない津波のため、彼らは不便な暮らしを受け入れた。

 

 

 

それでも稲作の定住生活は続けていく

 自然と共生した縄文人は、住まいが不便な高台でも構わないというスタンスだ。
 が、次世代の弥生人は、主要な生業が水田稲作となるため、まず、平野に住まなければお話にならない。そのため縄文時代に比べると、災害に襲われた痕跡も多少は多くなってくる。


 松島湾の南にある仙台平野では、およそ2000年前、弥生人開拓の水田が大津波によって水没。津波堆積物に襲われた跡が見つかっている(沓形遺跡)。
 青森県田舎館村では、土石流で埋め尽くされた水田跡も発掘。こちらは十和田湖火山の噴火が原因と目されている。
 また、奈良県御所市の秋津遺跡では、200年かけて育てた水田が(地層から推測)、洪水によって覆われた痛ましい跡も見つかっている。


 それでも弥生人たちは、定住生活による稲作を捨てはしなかった。たまに来る自然災害よりも、安定した収入の方が効率的で人口も増やせる。本能と経験でクレバーに判断したのであろう。


 先ほど縄文土器は呪術的な意味合いを持つと述べたが、その一方で弥生土器がシンプルかつ機能性に特化したデザインであることは、彼らの考えや生活と非常にマッチしている。
 米を炊くには「蒸らし」という過程が必須。それには土器を火の上で転がし加熱せねばならず、縄文土器のような装飾は邪魔になった。
 自然への感謝も、おのずと稲作のスケジュールに合わせたものとなり、次第に現在と同じ様な春と秋の祭りも行われるようになったであろう。

 

 最近の人類学やDNAの分析などにより、日本人は縄文人と渡来系弥生人、両方の子孫であることがわかってきた。
 自然災害に対しても、二者択一ではなく、縄文人のように寄り添いながら、弥生人のように挑戦していく。そんなスタンスで備えていくのが良いのかもしれない。

 

 

著者紹介
文・恵美嘉樹(えみよしき)
作家。歴史研究の最前線の成果を社会に還元する二人組。
著書に『全国「一の宮」徹底ガイド』(PHP文庫)、『最新日本古代史の謎』(学研)など。

好きな弥生式農具は石包丁。

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