• 東日本大震災

陸自史上最大の作戦 東日本大震災

 前編から約2年半を経て、あの連載がついに再開した。

陸上自衛隊史上最大の作戦となった「東日本大震災」。メディアが刻一刻と報じる裏側で指揮官たちは何を思い、何を考えて行動していたのか?

地震発生直後、陸自トップ火箱芳文陸上幕僚長(当時)のとっさの機転により、全国の陸上自衛隊はいち早く被災地に向かい、その結果より多くの命が救われた。しかし…

 火箱陸幕長率いる14万の陸上自衛隊の眼前には、自然の猛威に蹂躙され荒廃した大地が果てしなく広がる。

いつ終わるとも知れぬ災害派遣活動の中で、部隊は次第に憔悴の色を深めていく。

地震と大津波による災害への対処と福島第一原発事故という「二正面作戦」を強いられた陸上自衛隊。

どこまでいっても勝つことはない「自然災害との戦い」の先に、彼らを待ち受けていたものは?

第31回 軍の将 兵の将(6)

慧眼の士

 曹士の最高位である「陸自最先任上級曹長」まで上り詰めた清水は、つとに「慧眼(けいがん)の士」として知られる。

 

警衛(けいえい)」、つまり駐屯地などの門の前に立って警護している隊員のちょっとした仕草を見るだけで、門の中に入らなくても、その部隊の規律がどれだけしっかりしているか、隊員の士気がどのくらい高いのか、などがほぼ分かる。

 

幹部自衛官には見えないところまで良く見える上に、「火箱陸幕長の名代」で現地まで来ているとなれば、「清水に下手なことを言えば、何を陸幕長に報告されるか分からない」と隊員から怖れられる。

 

「清水は何しに来るんだ?」

 

現地部隊の指揮官クラスは特に清水を警戒し、決して本音を言おうとはしない。

 

そこは清水も心得ているから、被災地視察に際しては、河村第10師団長を始め気心の知れている以前の自分の上司たちを頼って行動している。

 

しかしそこまで怖れられる「慧眼の士」をしても、未曾有の規模の災害現場では、その場で言われなければ気づくことのできなかった問題もあった。

赤飯をやめてください

 それは宮城県石巻市に展開している部隊の指揮所に来た時だった。いつものように清水は「何か困ったことはないか?」と現地のニーズをヒアリングしていた。

 

「最先任、赤飯をやめてください!」

 

「はあ…?」

 

赤飯は、好き嫌いも少ない上に腹持ちが良い。自衛隊でも人気の糧食の一つだ。不可解に思う清水にその隊員はこう続けた。

 

「赤飯を食べていたら、『自衛隊の奴はそんなにめでたいのか!』と被災地の人に言われて、若い隊員がすごく悲しい思いをして帰ってきたんです。」

 

被災地の中でも特に多くの犠牲者を出した石巻市だったこともあるのだろう。

被災者の心情を慮って、車両などの陰に隠れて食事を取っていた隊員たちの姿を思い返し、清水は胸が詰まった。

 

「これは帰ってすぐ言わなければ…」

 

自衛隊では日頃から赤飯を食べているが、別に祝い事の席で供されているわけではない。あくまでも戦闘糧食として支給されているから、陸幕の担当者にも「そんなにめでたいのか?」などという被災者感情は思いもよらないだろう。

 

そしてこれ以降、陸上自衛隊の戦闘糧食から「赤飯」というメニューは消えることになった。

100キロ以上離れた指揮所

 「赤飯」の問題がそうであるように、戦場には実際行ってみなければ分からない問題がある。それは一見細かいことのようで、実は隊員の士気やストレスに大きく関わっていたりする。

 

こうした「部隊生活の機微」とでもいったものを細やかに汲み取れるからこそ最先任上級曹長なわけで、清水は何度も現地部隊を視察する過程で、「少しでも隊員の負担やストレスを減らそう」と常に腐心していた。

 

 岩手県釜石市を視察していた時のこと。

現地部隊は海岸線近くで災害派遣活動を行っているが、指揮所は100キロ以上離れた内陸部の盛岡市。

 

風呂に入るだけで片道2時間以上かかってしまうため、隊員たちはずっと入浴することもできず作業を続けていた。

 

この状況はさすがに厳しいということで、隊員を入浴させるために最も近いスーパー銭湯のような施設を借り上げたが、それでもべらぼうに遠い。

風呂に入れてくれ!

「どうしたもんかなあ…」

 

と思案しながら、清水は釜石市の沖合には海上自衛隊災害派遣部隊の艦艇が停泊していることを思い出した。

 

折よく数日後には仙台の東北方面総監部で、清水と同じ立場の陸海空の最先任が集まって情報交換しようということになっている。

 

 その席上、清水は海自先任伍長にこう切り出した。

 

「船の風呂に入れてくれ。それから陸の隊員たちにカレーを食わしてやってくれ。」

 

唐突な清水の要求に、海自先任伍長はいささか面食らいつつも、こう答えた。

 

「分かった。だけど被災地の人が最優先だからな。」

 

「もちろん被災地の人の後でいい。残り湯でいいから隊員たちも入浴させてやってくれ。」

 

 こうして、海自が被災地の人々の入浴支援などを行った1日の最後に、「エアクッション艇」と呼ばれるホバークラフト型の揚陸艇に乗り込み、沖合に停泊する海自艦艇へ向かう陸自隊員たちの姿が見られるようになった。

大川小学校の悲劇

 清水は1回目の現地視察から約1週間後に、岩手県釜石市から入って大船渡市、陸前高田市、気仙沼市、宮城県南三陸町、石巻市と海岸線に沿って南下して仙台市まで戻る、2回目の視察を行っている。

 

その行程の中で、清水は他の被災地とは違う、生涯忘れられない光景を目撃した。

 

 それは全校児童108名のうち74名が犠牲になった宮城県石巻市の大川小学校。

 

そこでは、災害派遣部隊の隊員とともに、児童の家族と思われる人たちもが泥だらけになりながら必死で行方不明者の捜索をしていた。

 

聞けば、作業しているのは行方不明になった児童の家族ではなく、無事だった児童の家族だという。

 

尊い命を奪われた大多数の児童と、九死に一生を得たほんのわずかの児童。

 

冷酷な運命によってもたらされた人々の心の中の軋轢は凄まじいものだったのだろう。

 

小さな集落の中でとてもいたたまれなくなった、助かった児童の家族たちが泥まみれになって必死で捜索を続けている。

 

その光景を目の当たりにして清水は涙が止まらなかった。

 

犠牲者やその遺族はもちろん、それを助ける災害派遣部隊も、そして我が子が助かった家族すらも、そこにいるすべての人が心を傷つけている。

 

想像だにできない圧倒的な災害の現実がそこにはあった。

 

 

(次回へつづく)

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