• 歴史

東日本大震災が起きてから、日本の歴史が震災という新たな角度で注目されるようになった。

 

M8.0クラスの大震災
富士山の噴火
大飢饉を招いた気候の寒冷化
など

 

かつては「大げさ」の一言で片付けられがちだった古文書の内容が、現実を目の当たりにして笑い事では済まされなくなったからだ。


歴史の記録には、我々の祖先が体験してきた貴重な記憶が詰まっている。

当連載では、それをやさしく紐解くことで、災害の今昔を学んでいきたい。

第十二巻 日本の首都に襲いかかる富士山噴火の脅威~上巻

富士山と南海トラフは連動している!?

 ユネスコの世界遺産に内定し、世界的にあらためて注目されることになった富士山。

 最後の大噴火から300年が経過しており、人間の感覚で言えば実に「長い間」静かにしている。このまましばらく眠ってくれるのか。あるいは明日にでも再び火を噴くのか。それは誰にもわからない。

 

 ただ、記録に残る限り、過去、定期的に10度の爆発をしているのは厳然たる事実。しかも、そのうち4回の噴火は南海トラフ地震の数十年前後の範囲という、恐ろしい一致も確認されている。

 

 864年 噴火 887年 南海地震
 1083年 噴火 1096年 東南海地震 1099年 南海地震
 1435年 噴火 1498年 東南海地震
 1707年 噴火 1707年 南海地震

 そこで今回は、「第四巻富士山噴火~平安時代編~」に続き、1707年の宝永噴火について、上巻・下巻の2回でお送りしたい。

 

 日本列島は北から南まで110ヶ所の活火山があり(気象庁調べ)、昔からその被害と直面してきたが、歴史上、「首都」が大噴火に見舞われたのは、江戸時代が初。

 それまで都のあった奈良と京都は、近畿一帯が火山と無縁だったため、過去の体験から噴火に対応するという防災・減災策を講じられないまま、国家としての危機に直面したのである。


 噴火によって、そのとき首都には何が起きたのか。そして、今後もし火を噴いた場合は、どんな事態が想定されるのか。

 

 内閣府の中央防災会議が2011年に刊行した『災害史に学ぶ』も参考とし、過去から未来を学んでいこう。

 

 

 

大地の叫びが長野県から千葉県まで

 1707年10月28日、南海トラフで推定M8.4-8.6という宝永東海地震が起きた。

 その約1ヶ月後の12月、富士山麓で鳴動(音がする)や小さな揺れを記録。12月15日には、はっきりとした群発地震が観測され、夜から未明にかけて揺れが強くなり、江戸や名古屋などの遠方でも感じられるようになった。


 そして16日の午前10時頃。強い地震とともに、ついに富士山の中腹が火を噴いた。爆発的な噴火は大気をとどろかせ、長野県から千葉県の広範囲にかけて、人々が大地の叫びを耳にしている。


 この時の噴火が江戸社会にもたらした最大の被害は、火砕流や降り注ぐ高熱の火山礫(れき)などの直接的な脅威ではない。すでに経済発展を遂げていた大都市・江戸にダメージを与えたのは、火山灰をたっぷりと含んだ噴煙だった。風向きが悪く、関東地方へタップリと運ばれたのだ。

 

 江戸の住民が富士山の噴火に気付いたのは、翌17日の午前のこと。それまでは浅間山や伊豆諸島の大島と勘違いされていた。当時の人々にとっても、休火山という認識であり、当然ながら防災対策は皆無であった。


 火山灰の被害は、立地的に神奈川県が一番酷かった。這々の体(ほうほうのてい)で旅人が小田原の旅館に到着したところ、現地ではわずかな留守番を残し、ほとんどの住民たちが避難していたという記録も残っている。


 江戸の2~4センチに対し、神奈川の中心地・横浜に降り積もった火山灰は8~16センチ。宝永の噴火では、実に7億立方メートルもの噴出物が、空中に放出されたと考えられている。

 

 

 

降灰によって多くの大名たちが気管支炎に

 火山灰は重量があり、その上、雪と違って溶けることもない。重みで倒壊した家も多かったであろう。


 もし現代に、同じような噴火が起きたらどうなるか?

 

 最も危険なのは家の倒壊ではなく、中空に張り巡らされた電線だという。同時多発的に灰の重みで切断されたら間違いなく大パニックとなるであろう。

 

 もちろん健康面でも恐ろしい事態が想定される。1707年の噴火は16日間という比較的短期間で終わったが、街に降り注いだ大量の火山灰の恐怖は、現在、西日本を中心に騒がれているPM2.5の比ではない。

 当時、こんな狂歌が流行したという(下段が元の歌で百人一首に収められている)。

 

 

これやこの 行くも帰るも 風吹きて 知るも知らぬも おほかたは咳

これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂(あふさか)の関

 

 

 狂歌の方は、『富士山の噴煙が風に運ばれてきて、誰も彼もが病気となって咳こんだ』という内容。

『貴族も平民もみんな大坂の”関”を通る』という元の歌にかかっており、実際、このときは、庶民も大名も気管支炎になる人が続出。大名らが将軍に挨拶をする月例の重要儀式にも、御三家をはじめとする60名以上が「風邪のために」欠席したという。


 時の将軍は、生類憐れみの令で有名な犬公方・徳川綱吉である。彼もまた風邪をひき、能の会を休止。その2年後に死亡した。当時流行した麻疹が死因と言われているが、もしかしたら気管支炎が影響したのかもしれない。


 そして、火山灰によって最も甚大な被害を受けたのが、他でもない食料だった。


 江戸の都市住民たちに豊富な食料を供給していた関東平野の水田や畑が灰で埋もれてしまい、農業生産が大幅にダウンしたのである。本当に怖いのは火砕流や地震ではなく、その後の危機…。


 次回は、生類憐れみの令などの悪政で名高い綱吉の政策を、食料や復興対策の視点から探っていこう。

 

 

 

著者紹介
文・恵美嘉樹(えみよしき)
作家。歴史研究の最前線の成果を社会に還元する二人組。
著書に『全国「一の宮」徹底ガイド』(PHP文庫)、『最新日本古代史の謎』(学研)など。

好きな富士山短歌は山部赤人作

田子の浦ゆ うち出でてみれば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪はふりける

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