• 東日本大震災

陸自史上最大の作戦 東日本大震災

 前編から約2年半を経て、あの連載がついに再開した。

陸上自衛隊史上最大の作戦となった「東日本大震災」。メディアが刻一刻と報じる裏側で指揮官たちは何を思い、何を考えて行動していたのか?

地震発生直後、陸自トップ火箱芳文陸上幕僚長(当時)のとっさの機転により、全国の陸上自衛隊はいち早く被災地に向かい、その結果より多くの命が救われた。しかし…

 火箱陸幕長率いる14万の陸上自衛隊の眼前には、自然の猛威に蹂躙され荒廃した大地が果てしなく広がる。

いつ終わるとも知れぬ災害派遣活動の中で、部隊は次第に憔悴の色を深めていく。

地震と大津波による災害への対処と福島第一原発事故という「二正面作戦」を強いられた陸上自衛隊。

どこまでいっても勝つことはない「自然災害との戦い」の先に、彼らを待ち受けていたものは?

第34回 大鷲の憂愁 獅子の涙(2)

飛び立つ大鷲

 福島駐屯地から直線距離にして南西へ約190キロ。群馬県榛東村(しんとうむら)。

 

森脇連隊長が第44普通科連隊の主力を福島県浜通りへ向けて送り出した頃、ここ榛東村にも、日没前に被災地へ向けてヘリコプターを飛び立たせようとしている部隊があった。

 

第12旅団。その部隊章「日本刀を携えたオオワシ」が示すごとく、UH-60ブラックホークやCH-47チヌークといったヘリを有する、陸上自衛隊唯一の「空中機動旅団」だ。

 

東部方面隊隷下。旅団司令部は群馬県榛東村の相馬原(そうまがはら)駐屯地に置かれ、群馬県・栃木県・長野県の防衛・災害派遣を担当しているが、その空中機動力を生かして「日本アルプスでの山岳救助」にも多くの実績を残している。

 

火箱陸幕長が関口泰一東部方面総監に直接指示したことにより、堀口英利旅団長率いる第12旅団は今まさに東北へ向けて飛び立たんとしていた。

 

「東北方面隊以外の部隊で、一番早く被災地に到着できるのは緊急展開能力を持つ第12旅団と河村(河村仁第10師団長)の率いる第10師団(愛知県名古屋市守山区)の先遣隊だな…」

 

全国の部隊に大号令をかけた火箱陸幕長は、3月11日夕方の時点で、部隊の展開スピードについて、こんな読みを持っていたが、その読みどおり第12旅団と第10師団は全力で北上を開始していた。

国道6号線まで進出せよ

 一方の福島駐屯地では、森脇が福島県の地図を広げ、災害派遣計画について思いあぐねていた。

 

状況が詳細に目視できない夜間の活動になるとすれば、なおさら、あらかじめ図上で人口の多い場所や海抜の低い地域など、どこに小隊ごとに投入していけば最も多くの人命を救助できるかプロットして命令を起案しなければならない。

 

それにしても、不安なのは夜間に新たな津波が起きたり、余震が来たりして救助に行った部隊が二次災害に遭う危険性だ。

 

海岸まで出れば救助できる人数は増えるかもしれないが、あの大津波の直後に隊員を海辺まで行かせるのはさすがに常軌を逸している。

 

最も海岸線に近い、一番東側の国道まで隊員を進出させよう。

 

 最終的に森脇が決断したのは、福島県の太平洋岸を南北に貫く「国道6号線」まで部隊を進出させることだった。国道6号線も近いところでは海岸線から数100メートルしか離れていない。

 

ほとんど「気休め程度」とも見えるが、国道6号線まで下がっていれば、それでも津波が再来した場合に、なんとか部隊が退避する時間を稼げるかもしれない。

 

「人命救助という使命」と「隊員の命」を秤にかけた、森脇としてはギリギリの選択だった。

明日は自分も浜通りに

 北国の早い日が暮れ、浜通りに部隊が到着するにつれ、福島駐屯地にいる森脇の元に現地の状況が入り始めた。

 

南相馬市の海岸線から1.7キロほど内陸に入った「みちのく鹿島球場」。ここは市の広域避難場所に指定されていたので、発災当初この球場を目指して避難してきた人もいた。

 

しかし大津波はこの避難場所をすら飲み込んだ。スタンドにいた人は助かったが、グランドにいた10名の命が失われた。

 

自衛隊が到着した時には、すでに津波は引いていたが、また再び津波が襲ってくるかもしれないという恐怖から、スタンドの上の方に肩寄せ合って人々が取り残されている。

 

福島第一原発の周辺でも、一時的に小学校や中学校に避難している人々がおり、災害派遣部隊は、こうした浜通りの各所で孤立している被災者たちを避難所に運んでいた。

 

「とにかく何があるか分からないので、目の前のニーズに応じたことをやれ。」

 

部隊から逐次上がってくる報告、相談に対し森脇はこう答えて、指示を出していた。

 

「指揮所を浜通りに前進させて、明日の昼過ぎには自分も現地に行こう。」

 

様々な調整業務をこなしながら、森脇にとっての3月11日の夜はこうして更けていった。

伝えられなかった原発の混迷

 ここで少し視点を変えて、第44連隊が救助活動を行っているすぐそばにある福島第一原発内でこの時、何が起きていたのか改めて簡単に振り返ってみよう。

 

今にして思えば、津波が福島第一原発を襲った11日午後3時すぎには、1号機〜6号機は全電源喪失=SBO(ステーション・ブラックアウト)を起こし、故吉田昌郎所長は「何でもいいから液体を持ってきてくれ」と、この段階で悲痛な声を上げている。

 

これは、本来、福島第一原発を担当する第44連隊がまだ福島駐屯地を出発する前のタイミングだ。

 

そして部隊が浜通りで活動し始めた午後8時すぎには、経済産業省緊急時対応センター(ERC)から「冷却系が止まればメルトダウン(炉心熔融)まで3時間」との予測が官邸に伝えられている。

 

さらに午後9時すぎには、菅直人総理が福島第一原発から半径3キロ圏内の避難を指示している。

 

この時点で、福島第一原発内はもとより、官邸も東電も十分に緊急事態であるとの認識があったはずだが、11日の夜に、現地最前線の森脇に入った連絡も、市ヶ谷防衛省で陸上自衛隊のトップとして事態の推移を見守っていた火箱陸幕長に入った連絡も、その内容は原発内の混迷を伝えるにはいささか緊迫感を欠いたものだった。

 

「もしかして電源車をヘリで運ぶかもしれないから、それを受け取ってもらうかもしれない。」

 

なんとも漠とした話だが、森脇はその要請に現地指揮官としてこう答えた。

 

今、部隊が向かっているので、オフサイトセンターの近くで電源車を受領できるよう頑張って前進します。

 

しかし、しばらくして「あの話はなくなった」と連絡が入る。

 

たったそれだけ。

 

その理由は今となってはわからないが、福島第一原発内の混乱も、東電・官邸の混迷も、その全ての情報が11日の夜、防衛省・自衛隊には伝えられなかった。

 

そして、この事が最初の「運命のほつれ」として、「福島の獅子たち」のその後を決定付けた。

全力で石巻市に向かえ

 その電話が森脇に入ったのは日が変わって12日の未明。電話の主は作戦計画全般を担当する第6師団司令部の第三部長だった。

 

「第44普通科連隊は、明日以降、全力で宮城県石巻市に向かってもらえませんか。」

 

「……」

 

森脇は内心、後ろ髪を引かれる思いだった。この福島を第二の故郷だと思って、この地に骨を埋める覚悟で連隊長として赴任した。

 

そのために、まさにこの日のために、これまで自治体や地域の人々とさまざまな訓練を行い、協力関係を築いてきた。

 

彼らは「万が一の時には、森脇率いる郷土部隊が福島のために頑張ってくれる」と信じてくれているはずだ。

 

しかしかねてよりの作戦計画で、大規模災害が東北地方に発生した時には、自分たちは宮城県に派遣されることは決まっていた。自衛官としては計画に従い粛々と動くのは当然のこと。

 

それでも森脇は一度だけ第三部長に念押しをした。

 

「現在継続中の任務があるが、本当に全力で石巻市に向かっていいのか?」

 

「…その通りです。」

 

森脇は郷土への愛惜の念を振りはらい、石巻市へ転進の準備を開始した。

 

 

(次回につづく)

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