• 東日本大震災

陸自史上最大の作戦 東日本大震災

 前編から約2年半を経て、あの連載がついに再開した。

陸上自衛隊史上最大の作戦となった「東日本大震災」。メディアが刻一刻と報じる裏側で指揮官たちは何を思い、何を考えて行動していたのか?

地震発生直後、陸自トップ火箱芳文陸上幕僚長(当時)のとっさの機転により、全国の陸上自衛隊はいち早く被災地に向かい、その結果より多くの命が救われた。しかし…

 火箱陸幕長率いる14万の陸上自衛隊の眼前には、自然の猛威に蹂躙され荒廃した大地が果てしなく広がる。

いつ終わるとも知れぬ災害派遣活動の中で、部隊は次第に憔悴の色を深めていく。

地震と大津波による災害への対処と福島第一原発事故という「二正面作戦」を強いられた陸上自衛隊。

どこまでいっても勝つことはない「自然災害との戦い」の先に、彼らを待ち受けていたものは?

第37回 大鷲の憂愁 獅子の涙(5)

とにかく生きている人を救おう

 通常の人命救助・捜索活動であれば、まず地方自治体などから情報を共有し、例えば住民台帳などの資料で「捜索・救助の対象者」を特定する。

 

しかし石巻市の場合は完全に自治体機能が崩壊している上に、広範な地域が冠水している。

地図から町名ぐらいはなんとか割り出せるが、そこが何丁目なのかといった地番はまったく分からない。

 

唯一コンタクトが取れた頼みの綱は、市街地の北西に位置する石巻赤十字病院だけ。

 

石巻赤十字病院は、免震構造のおかげで地震の被害が少なく、非常用電源設備なども備えていたことから、地域のほとんどの医療機関が機能を停止している中、災害拠点として多くのけが人や病人を受け入れていた。

 

この石巻赤十字病院に、多賀城駐屯地から来た第22普通科連隊の中隊長が指揮所を構え、石巻市長も一緒にいる。

 

森脇連隊長は状況を確認するために石巻赤十字病院を訪ねたが、ここにも被災状況はまったく入ってこなかった。

 

ありったけのボートを集めて、とにかく生きている人を片っ端から救おう。

 

情報がまったくない以上、自分たちの目視で確認できる被災者から救助するしかない。

 

森脇は中隊にそれぞれ地区を分担させ、2階から手を振っているなど視認できる生存者、市民から寄せられる目撃情報などを元にボート作戦を展開し、手当たり次第に人命救助を開始した。

隊員の命を奪られるかもしれない

 石巻市は南に向かって石巻湾が開け、旧北上川が蛇行しながら市街地を北上している。

津波は石巻湾から沿岸部を襲い、旧北上川を数キロ先まで遡上した。全校児童108名のうち74名が犠牲になった、あの石巻市立大川小学校は、約4キロも旧北上川を内陸に遡った場所にある。

 

4キロ先でも大惨事を生む地形だ。再び津波が来たら、冠水している沿岸部でボートに乗って救助作業を続ける隊員たちなどひとたまりもない

 

隊員たちの命を奪られるかもしれない…

 

森脇は再び「救助という使命」と「隊員の命」のはざまに立たされていた。

 

旧北上川の河口近くには「日和山(ひよりやま)」という標高60メートルほどの小高い丘がある。津波が押し寄せた時に、ここに登って一命を取り留めた人も多くいた。

 

一方で日和山の南側のふもとには、海から(つまり南から)押し寄せた津波により山肌に叩きつけられた多くの家屋が散乱し、市街地でも被害が甚大な地域のひとつだった。

 

この日和山の頂上ならば、石巻市街地も海岸線も一望できる。

 

森脇は日和山の頂上に常時、隊員を立たせ、目視ではあるが津波の状況を監視するようにした。

 

津波の兆候があれば部隊すべてに無線で連絡するとともに、「車両のクラクションを何回鳴らしたら離脱準備」といった合図も決め、各部隊には車の停める方向から、離脱経路も事前に指定して津波に備えさせた。

サイレント・タイム

 三日目の夜は、あっという間にやってきた。津波に襲われ、冠水した石巻市街地は漆黒の闇に閉ざされた。

 

見える明かりはだいぶ下火になった門脇(かどのわき)地区などの火災のほのおだけ。

 

その闇の中で、森脇たちは懐中電灯を頼りにボート作戦を続行していた。日和山に監視は立てているものの、しょせんは目視のみ。夜間に津波の兆候を把握するのはかなり難しいだろう。

 

いまだ激しい余震も続いており、夜間活動中に万が一津波が再来したら実際はなすすべもないが、その闇の向こうに、今も助けを求めている多くの被災者がいた。

 

真っ暗な水の上をボートは直線的に往復する。

 

少し進むと1回止まって、「誰かいますか!」などと周囲に声をかける。

 

 

懐中電灯を振る人や、木でがれきを叩いて救助を求める人もいるかもしれない。わずかな生存者の兆候でも聞き逃さない、見逃さないために、声をかけた後は、じっと息を潜めて周囲を注視する。

 

森脇たちは、この時間のことを「サイレント・タイム」と呼んでいた。

 

暗ければ暗いほど細心の注意を払わなくてはならないから、夜ともなれば、ボートが1回往復するのに1時間以上もかかる。

 

ゴムボートの定員は6名。そこに2人、多くても3人の隊員が乗って捜索に行く。1回で連れて戻れる被災者は3人が限界だから、大勢の人が見つかった場合は何回も何回も小さなボートで往復した。

 

そして発見した生存者は、車両が待機している場所までボートで戻り、避難所や医療施設まで搬送する。

 

森脇たちは夜を徹して、この作業をひたすらに繰り返した。

 

そして「福島の獅子たち」が異郷の闇の中で必死の作業に追われているちょうどその頃、森脇たちが後にした郷土福島と、その地に降り立ったばかりの第12旅団を、想像だにできない「深い恐怖の霧」が包みこもうとしていた。

 

 

(次回につづく)

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