• 東日本大震災

陸自史上最大の作戦 東日本大震災

 前編から約2年半を経て、あの連載がついに再開した。

陸上自衛隊史上最大の作戦となった「東日本大震災」。メディアが刻一刻と報じる裏側で指揮官たちは何を思い、何を考えて行動していたのか?

地震発生直後、陸自トップ火箱芳文陸上幕僚長(当時)のとっさの機転により、全国の陸上自衛隊はいち早く被災地に向かい、その結果より多くの命が救われた。しかし…

 火箱陸幕長率いる14万の陸上自衛隊の眼前には、自然の猛威に蹂躙され荒廃した大地が果てしなく広がる。

いつ終わるとも知れぬ災害派遣活動の中で、部隊は次第に憔悴の色を深めていく。

地震と大津波による災害への対処と福島第一原発事故という「二正面作戦」を強いられた陸上自衛隊。

どこまでいっても勝つことはない「自然災害との戦い」の先に、彼らを待ち受けていたものは?

第38回 大鷲の憂愁 獅子の涙(6)

政府事故調査報告書

 大鷲はその翼をして、もっとはるか遠くまで飛び立つはずだった。

 

陸上自衛隊最高レベルの空間機動力を持つ第12旅団こそが、いかなる場所にも最も早くたどり着ける。東北地方に大災害が起きた場合にも、宮城県から岩手県沿岸部の、最も被害が甚大と見積もられる地域に投入される想定だった。

 

しかし運命は皮肉だ。

 

森脇連隊長率いる第44普通科連隊が郷土を離れ宮城県石巻市に転進した穴を埋めるべく、「福島県担任部隊」として郡山駐屯地に前進し、そこで一夜を過ごしたがために、原発事故という「想定外」の事態に見舞われ、その地から一歩も動くことができなくなった。

 

第12旅団が「始めの一歩」と思って踏んだ地は、実は未曾有の原子力災害という戦場の最前線だった。

住民避難の過程で50名が亡くなるという悲劇も起き、当時の第12旅団の活動については毀誉褒貶さまざまな議論・評価があった。

 

福島県全体が「原子力の恐怖」という深い霧に包まれる中、一体何が起きていたのか?そこにはさまざまな人間や組織が絡み合い、多くの人が先の見えない恐怖の中でもがいていた。

 

この深い霧を解き明かすにあたっては、公正を期すためにも、ここからしばらくは、震災から約1年半後の2012年7月にまとめられた政府の東電福島原発事故調査・検証委員会の報告書をベースに、他の公開されている資料からも細部を補筆し、事態の全貌を再構成してみたい。

 

政府事故調査委員会は、この報告書を作成するにあたって実に772人の関係者に1500時間近いヒアリングを実施している。

 

そして2015年9月24日までに、この772人のうち246人分の調書も公開されている。

 

その調書を仔細に読むと、多くの人の心に深い傷を残した「恐怖の1週間」のリアリティがまざまざと匂い立ってくる…

双葉病院とドーヴィル双葉

 悲劇の舞台となったのは福島第一原発の所在地、大熊町にある双葉病院。開院から50年以上の歴史を持つ地元でも有数の病院だった。

 

福島第一原発からは約4.5キロ。原発対処の最前線となったオフサイトセンターからは約1キロの至近距離に位置する。

 

双葉病院の鈴木市郎院長(当時77歳)はいわき市などにも病院を持つ、福島県有数の医療法人グループ「博文会」のトップでもある。

 

双葉病院は精神科の病院だが、いわゆる「精神病院」ではなく、患者の大半を認知症などの高齢者が占める高齢者医療の病院で、入院患者の中には末期がんの人など重症患者も多く抱えていた。

 

震災当時、双葉病院には患者338名がおり、近くには入居介護が必要な高齢者のための老健施設「ドーヴィル双葉」(震災当時入居者98名)という同じグループの施設もあった。

 

地震による建物の損壊はさほどでもなかったが、直後から水道、電気、ガスが使えなくなった。医療施設には輸液ポンプやモニター、たん吸引装置など電気が必要な機器が多数ある。

 

体が弱った高齢者が多いから、たん吸引を怠っただけでも容易に死につながる。電灯が点かず真っ暗な中、誰も助けに来ない11日の夜は、ろうそくや懐中電灯を頼りに、医師・看護師らはすべてが手作業で患者たちの介護に当たった。

第一の不幸

 翌12日午前5時44分。原発から半径10キロ圏内に避難指示が出された。大熊町はもちろんながら対象圏内に入る。

 

国土交通省が準備したバスが大熊町役場前に到着し、朝早くから脱出する町民が長蛇の列をなしている。

しかしチューブに繋がれた高齢者の患者を列に並ばせることなどできないから、双葉病院職員が町役場の災害対策本部に出向き、渡辺利綱町長にバスを病院に回してくれるよう直談判した。

 

正午すぎ、ようやく大熊町が手配した観光バス5台が病院に到着した。このバスに338名の患者のうち、自力で歩くことのできる患者209名が乗り込んだ。

 

ちなみにこの直前に町から要請され、オフサイトセンターにいた自衛隊員が幌付きトラックで救助に向かったが、病院の医師に「患者が寒さに耐えられない」との理由から搬送を断られている。

 

ここで「第一の不幸」が起きた。すぐにバス第二陣が来ると思ったからだろうが、鈴木院長は、この比較的軽症な患者209名の付き添いとして、その時、病院内にいた自分以外の医療スタッフ等64名全員をバスに乗せてしまった。

 

しかしその後、大熊町手配の観光バスは二度と双葉病院に来ることはなかった。

 

双葉病院からのバス第一陣が出発したわずか30分後、町民全員の避難完了を確認しないまま、大熊町役場は最低限の10人だけを残して役場自体が撤収している。

 

そして午後3時36分。福島第一原発1号機の水素爆発が発生した。

 

原発から至近距離にある大熊町中に、その爆発音が鳴り響く。

 

それを聞き、大熊町役場の残る10人も即座に退避する。

 

町役場撤収の経緯について渡辺町長は事故調査委員会のヒアリングでこう語っている。

 

バス5台と自衛隊車両が向かったため、私どもは双葉病院およびドーヴィル双葉の避難も完了するだろうと思い(中略)役場を出発している。

 

自衛隊のトラックが双葉病院に向かったことは確認しているので、仮に残留患者がいたとしても自衛隊において病院職員と話をして、しかるべき措置をとってくれるだろうという認識だった。

1号機水素爆発

 午後3時36分。福島第一原発事故で最初の水素爆発となった1号機の水素爆発は、町役場の職員を撤収させるのみならず、さらに二つの不幸の連鎖を生んでいた。

 

双葉病院から約250メートル離れた老健施設「ドーヴィル双葉」。まだ入居者98人が取り残されているここにも水素爆発の爆発音が鳴り響いた。

 

施設内に危機感が高まる中、施設長はスタッフの去就について「自主判断」に委ねる。

 

幾人かは残ってくれるだろうとの淡い期待もあったのだろうが、その結果は、施設長と事務課長を除くスタッフ17名全員が98名の入居者を残し施設を去る決断を選択した。

 

他人の生命を預かる病院や施設の使命がある一方で、津波により家族の安否が気遣われ、ましてやこの状況では自分自身に放射能の危険が迫っている。

 

批判するのはたやすいが、極限状況での行動だったのだろう。

 

双葉病院は、重症患者129名に対し鈴木院長1人。ドーヴィル双葉は98名の入居者に対し施設長と事務課長の2人。

 

これがその後の悲劇の伏線となった。

 

一方この約30分前、郡山駐屯地に到着したのもつかの間、第12旅団輸送支援隊は、避難区域の残留者を避難させるため、大熊町のオフサイトセンターに向けて駐屯地を出発していた。

 

しかし群馬県からはるばる福島県に派遣されたばかりの彼らに土地勘はまったくない。当時福島第一原発周辺は携帯電話や無線など、通信手段はほとんど途絶している。

 

すでにゴーストタウンと化し、道を尋ねる人もいない大熊町でオフサイトセンターを見つけることができなかった。

 

車両のラジオから流れるニュースでは1号機の水素爆発を伝えているが、司令部の指示を仰ごうにも連絡はつかない。

 

指揮官の判断は「いったん駐屯地に退却」だった。

 

オフサイトセンターは双葉病院からわずか1キロ。そこまで救援部隊が到達していたのに、1号機の水素爆発が、尊い命を救う千載一遇のチャンスをも吹き飛ばした。

二日目の夜

 何ら救援の手が差し伸べられないままに、2回目の真っ暗な夜が双葉病院を包み込んだ。

 

明かりも暖房もない北国の病院で、77歳の病院長一人が129名の高齢重症患者を看る。前夜の最低気温はマイナス2度。薬剤も食料も次第に尽きかけている。

 

想像するだに恐ろしいが、いつどこで誰が息を引き取ってもおかしくない状況だった。

 

この夜8時ごろ、福島県警の警察官とオフサイトセンターの自衛官が双葉病院を訪ねた。

 

のちのヒアリング調書を見る限り、ここでの鈴木院長と自衛隊側の会話については双方の認識が食い違っている。

 

オフサイトセンターにいる自衛官に対し、県警から双葉病院へ行ってくれとの依頼があったのに対し、この自衛官は「昼に一度双葉病院へ行っており、幌付きトラックでは搬送できないと断られており、現在も同じ車両しか用意できないので、また断られる。」と県警に伝えたが、県警の担当者が納得せず、仕方なく再度訪問したらしい。

 

ここで鈴木院長は「自衛隊が翌13日午前に救助に行くと約束した。」と主張しているのに対し、自衛隊側は「13日に避難させるということを約束したとは聞いていない。」と事故調に答えている。

 

奇妙なエアポケット

今となっては、真相は闇の中だが、福島第一原発のオフサイトセンターで住民安全班長を務めていた高田義宏福島県相双地方振興局環境部副部長はヒアリングでこう証言している。

 

「3月11日から13日くらいまでは、避難範囲であっても線量が著しく増加していたわけでなく、入院患者の中には、容体が悪く、無理に移動させるよりも屋内にとどまっていた方もいたため、病院長等の判断で、避難範囲であっても施設内にとどめていることがあった。

 

双葉病院も、院長の判断で移動させずに院内にとどめている患者がかなりおり、私は直接院長から、無理に避難させずに院内に残した方がいいという判断を聞いている。」

 

つまり、まだこの時点では「劣悪な環境で避難を強行するくらいなら、患者の容態によっては院内に残している方が望ましい」という認識が病院側も含め少なからずあったということだろう。

 

いずれにせよ双葉病院もドーヴィル双葉も多くの患者・入居者を残したまま12日の夜が明け、そして鈴木院長が「約束した」とする翌13日の救助も来ることはなかった。

 

双葉病院の近隣には双葉厚生病院を始め、同じように重症患者を抱える医療機関があるが、こうした施設では、バスなどで移送できない重症患者のために12日の段階で、中央即応集団(CRF)隷下の第1ヘリコプター団や第12旅団隷下の第12ヘリコプター隊のCH-47チヌークによって空輸までが実施されている。

 

さまざまな要素が錯綜し、結果としては双葉病院だけが、奇妙なエアポケットのように救助の手から漏れ、それは12日どころか13日いっぱい、つまり地震から48時間以上も放置される結果となった。

 

次回につづく)

 

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