• 東日本大震災

陸自史上最大の作戦 東日本大震災

 前編から約2年半を経て、あの連載がついに再開した。

陸上自衛隊史上最大の作戦となった「東日本大震災」。メディアが刻一刻と報じる裏側で指揮官たちは何を思い、何を考えて行動していたのか?

地震発生直後、陸自トップ火箱芳文陸上幕僚長(当時)のとっさの機転により、全国の陸上自衛隊はいち早く被災地に向かい、その結果より多くの命が救われた。しかし…

 火箱陸幕長率いる14万の陸上自衛隊の眼前には、自然の猛威に蹂躙され荒廃した大地が果てしなく広がる。

いつ終わるとも知れぬ災害派遣活動の中で、部隊は次第に憔悴の色を深めていく。

地震と大津波による災害への対処と福島第一原発事故という「二正面作戦」を強いられた陸上自衛隊。

どこまでいっても勝つことはない「自然災害との戦い」の先に、彼らを待ち受けていたものは?

第41回 大鷲の憂愁 獅子の涙(9)

第12旅団到着

 14日午前4時ごろ、ついに第12旅団輸送支援隊が、老健施設「ドーヴィル双葉」に到着した。ドーヴィル双葉は老健施設なので、双葉病院ほどシリアスな人は少ない。

 

だがそれでも屋外に出るにあたっては一人一人タイベックスーツを着せてバスまで運びこむので、それなりに時間がかかる。

 

ドーヴィル双葉の施設長と事務課長は患者たちのカルテも積み込もうとしたが、すべての入居者、患者が乗り切れない状況でもあり、一部分のカルテしか積み込むことはできなかった。

 

ドーヴィル双葉の入居者98名全員を搬出したのちに、旅団輸送支援隊は約250メートル離れた双葉病院に向かった。こちらは重症患者が多いのでさらに搬出作業には時間がかかる。

 

双葉病院は大きく東病棟、中央管理棟、西病棟の3つの棟からなっており、西病棟には比較的症状の軽い患者が、東病棟には重症患者が多くいた。

 

搬出にあたっては、鈴木院長らが病棟内でトリアージし、重症度の高い患者から選ぶから、必然的に東病棟の患者が主に搬出される。

 

搬出が決まった患者に警察が用意したタイベックスーツを着せては、警察官がストレッチャーで出口まで運び、輸送支援隊の隊員が車両に搬入する。

 

比較的容態の軽い人は、大型バスの座席に座ってもらうが、寝たきりの人はシート二人分を使って横にする。

 

車両が定員いっぱいになって、旅団輸送支援隊が双葉病院を出発した時には、すでに午前10時30分を回っていた。

スクリーニング場所の相双保健所へ

 この第一陣で救出できたのはドーヴィル双葉の入居者98名全員と双葉病院の患者34名。まだ双葉病院には約90名の患者が残されていた。

 

この時に、「病棟内にいた鈴木院長が建物の外で車両への搬入作業をしていた自衛隊員とまったく顔を合わせていないままに、自衛隊車両が勝手に出発してしまった」との批判もあったが、これはやむを得ない事にも見える。

 

線量が増加して放射線被害が懸念されるから避難指示が出されているわけで、自衛隊員への放射線被害はもとより、患者や警察官にしても屋外にさらしておく時間は一刻でも短くしたいはずだ。

 

それを考えれば、「満員になり次第、車両は速やかに出発する」という指揮官の判断は、あながち間違いとは思えない。

 

それに向かう先は、双葉病院のある大熊町から約30キロ離れた南相馬市内にある相双保健所。ここが県災害対策本部の救援班によって指定されたスクリーニング場所だった。

 

命令はこのスクリーニング場所と双葉病院を往復してピストン輸送することだったから、できるだけ早く第1陣を出発させて、なるたけ早く戻ってこようと考えるのは自然なことだろう。

 

いずれにせよ入居者と重症患者合計132名を乗せたバスは一路、相双保健所に向けて北上を開始した。

保健所長の怒り

 現地の地理に明るくない第12旅団輸送支援隊のバスを警察車両が先導し、一行が相双保健所に到着したのは1時間半後の午後0時ごろ。

 

一行を見て相双保健所の笹原保健所長は仰天した。

 

輸送支援隊には医官はおろか看護師も含め医療スタッフは誰もいない。そんなバスに重篤な症状の患者が乗せられている。

 

保健所は、この時点で容態が悪く、これ以上の搬送には耐えられないと判断した患者4名を南相馬市内の病院に搬送している。

 

この時の保健所長の驚きぶりと怒りについて、オフサイトセンターの高田住民安全班長がのちのヒアリングで証言している。

 

その証言によると、それから2日後の16日朝に、高田班長は笹原保健所長の電話を受ける。笹原保健所長はかなり激昂した様子でまくし立てた。

 

「双葉病院とドーヴィル双葉から、設備の整っていないバスで患者が運ばれてきた。スクリーニングした後、いわきへ運ばれていったが、どうなっているんだ。スクリーニングする必要があるのか?なぜいわきへ運ぶんだ?」

 

搬送時の詳細な状況を知らない高田班長からすると保健所長が何に怒っているのかよく分からない。

 

「言わんとしていることがよく分からないので、紙に書いて送ってほしい。」と答えたが、要するに笹原保健所長が言いたかったことは、「なぜ病院関係者が同乗していないのか?」ということと、「重篤な患者を遠く離れた、しかも高校に運んでどうするんだ?」ということだった。

 

この時の高田班長からの要求に対して笹原保健所長が送ったペーパー「いわき光洋高校に搬送された避難者の死亡事件について(第一報)」をもとに高田班長は「避難住民の死亡等について(福島第一原発)」という報告書を作成し、オフサイトセンター幹部に報告した。

 

これらのペーパーがもとになって、後に県災害対策本部がプレスリリースをするが、これが結果としてミスリードとなり、「鈴木院長が患者を置き去りにした」というマスコミ各社の誤報?につながる。

 

 

乗用車乗り逃げ事件

 この時点で鈴木院長は双葉病院にいて、必死の看護をしていたのだから、確かに「患者を置き去りにした」というのは間違いだ。

 

しかし病院側の判断ミスが皆無かと問われれば、第三者から見ればそうではないようにも思える。そして県災害対策本部の混乱は事態を極度に悪化させているし、自衛隊の対応も非常時下とはいえ100点満点とは言い難い。

 

こうしたさまざまな要素が錯綜して、事態はさらに悪化の一途をたどっていたが、この事態の悪化に一層拍車をかけたのが、1号機に続いて発生した3号機の水素爆発だった。

 

第12旅団輸送支援隊が相双保健所に向けて出発した直後に話を戻そう。

 

輸送支援隊はピストン輸送してすぐに戻るつもりだったから、現地リエゾンとして小隊長一人だけを双葉病院に置いていった。当時原発周辺は通信状況が極度に悪く、小隊長は輸送支援隊とも旅団司令部とも連絡が取れずにいた。

 

そして鈴木院長始め双葉病院のスタッフと県警が次の搬送に向けての準備を進めていた矢先の午前11時01分、3号機水素爆発の轟音があたりに鳴り響いた。

 

小隊長は、避難区域において原発に異常があった場合は、速やかに指示を仰がなかればならないと命令されているが、通信手段も車両もない。

 

ドーヴィル双葉職員にオフサイトセンターまで乗用車を貸してほしいとお願いした。

 

双葉病院からオフサイトセンターまでは、車だったらほんの数分。オフサイトセンターで通信機器(電話)を借りて、郡山駐屯地の第12旅団司令部に状況を報告するつもりだった。

 

だが小隊長がオフサイトセンターには着いてみると誰も出てこない。3号機爆発直後のオフサイトセンターは天地がひっくり返るほどの混乱ぶりで、外に自衛官が来ていることなど誰も気づかなかったのだろう。

 

やむなく小隊長はオフサイトセンターのドアの外側に伝言を貼り紙すると、応援を求めるため、そのまま乗用車で郡山駐屯地へ向かった。

 

当然ながら後日お詫びをして、その乗用車も持ち主に返却したが、これがまた「自衛隊隊長が自家用車乗り逃げ」と、のちにマスコミなどで批判されている。

長く過酷な旅

 そして3号機の水素爆発は、旅団輸送隊本隊にも大きな影響を与えていた。

 

患者の容態を見て相双保健所は、車両の乗り換えなど到底無理と判断した。スクリーニングすらも自衛隊車両内で行なっている。

 

そして笹原保健所長は輸送支援隊長に「民間バスへの乗り換えは困難だから、搬送先のいわき光洋高校まで自衛隊車両で搬送してほしい」と要請した。

 

当初は双葉病院から相双保健所までのピストン輸送の予定だったが、輸送支援隊長は第12旅団司令部に連絡し、この要請を了承した。

 

その代り現地に不案内な第12旅団輸送支援隊のために、笹原保健所長は道案内として保健所職員1名を同行させてくれた。

 

普段だったら、いわき市に行くには、相双保健所がある南相馬市から海沿いを走る常磐自動車道や国道6号線などを使って単純に南下すれば良い。距離にして90キロ弱。

 

しかしそのルートを取ると、3号機の水素爆発で極めて危険な状態の福島第一原発のすぐ近くを通過しなければいけない。最も近いところから原発までの直線距離は常磐自動車道で約6キロ、国道6号線では約2.5キロ。当然ながら避難指示区域の中に入る。

 

これを迂回しようとすれば、海岸線より遥か西を走る東北自動車道を使うことになるが、そのためには南相馬市から国道114号線を使っていったん北西に63キロほどのぼり、福島西インターチェンジから東北自動車道を南下して常磐自動車道に入ることになる。

 

この総距離は、双葉病院から計算すると約220キロ。まるで福島県を大まかに半周するようなルートだ。

 

まして地震により至るところが寸断されている。どれくらいの時間がかかるか分からない。

 

それは重症患者にとってまさに「死出の旅」ともなりかねない過酷な行程だった。

 

そして第12旅団輸送支援隊は午後3時、この長く過酷な旅に出るため相双保健所を出発した。

 

目指すは200キロ以上の迂回路の先に待つ「いわき光洋高校」。

 

この時点で、第12旅団輸送支援隊がドーヴィル双葉に到着してからすでに10時間以上が経過していた。

 

(次回につづく)

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