• 東日本大震災

陸自史上最大の作戦 東日本大震災

 前編から約2年半を経て、あの連載がついに再開した。

陸上自衛隊史上最大の作戦となった「東日本大震災」。メディアが刻一刻と報じる裏側で指揮官たちは何を思い、何を考えて行動していたのか?

地震発生直後、陸自トップ火箱芳文陸上幕僚長(当時)のとっさの機転により、全国の陸上自衛隊はいち早く被災地に向かい、その結果より多くの命が救われた。しかし…

 火箱陸幕長率いる14万の陸上自衛隊の眼前には、自然の猛威に蹂躙され荒廃した大地が果てしなく広がる。

いつ終わるとも知れぬ災害派遣活動の中で、部隊は次第に憔悴の色を深めていく。

地震と大津波による災害への対処と福島第一原発事故という「二正面作戦」を強いられた陸上自衛隊。

どこまでいっても勝つことはない「自然災害との戦い」の先に、彼らを待ち受けていたものは?

第42回 大鷲の憂愁 獅子の涙(10)

いわき光洋高校

 いわき光洋高校。

 

「いわきニュータウン」として開発された福島県いわき市中央部の小高い丘の上に1993年、全日制では日本初の「単位制高校」として誕生した。比較的歴史の新しい、当時としては「革新的」な高校と言える。

 

いわき光洋高校の田代公啓校長が、最初にその電話を受けたのは震災翌日の12日の朝だった。

 

南相馬市の自宅で地震の後片付けをしていたが、まだ停電が続いており情報源はラジオしかない。

 

東京にいる子どもたちからは、「テレビで福島第一原発が大変なことになっていると報道されているので逃げろ。」というメールが届いていたが、ラジオでは原発の情報はほとんどない。

 

だから田代校長は自宅から避難する気にはなれずにいた。

 

午前8時ごろ、高校の鈴木俊明事務長から電話があった。福島県いわき振興局の職員から「光洋高校を避難所に指定させてほしい」という申し出があったとのこと。

 

田代校長は即座に「承知する」と返答するよう鈴木事務長に伝えた。

 

この日の午後1時ごろ、鈴木事務長から、正式にいわき光洋高校を避難所に指定する旨が振興局から来たとの報告を受け、田代校長は自宅から高校に車で向かった。

避難者のいない避難所

 田代校長の自宅がある南相馬市小高区からいわき光洋高校までは約90キロ。普段ならば1時間半もあれば着く距離だが、この日、田代校長がいわき光洋高校に到着したのは午後6時を回っていた。

 

田代校長は先に学校に到着していた吉田強栄教頭、鈴木事務長とともに、体育館にブルーシートや畳を敷き、ジェットストーブ数台に火を入れた。

 

しかしそれ以外の食料や毛布などの物資はまったくなく、避難所と言っても「一時しのぎできる場所」に過ぎない。

 

この日の夜に楢葉町からの避難者12名がバスで来たが、翌13日午前には同町の消防団が来て、その12名を他の楢葉町民が避難している避難所に連れて行った。

 

避難所に指定はされたものの、13日の夜にいわき光洋高校に避難している人は誰もいないまま、田代校長以下3人だけが学校に泊まっていた。

 

 

医療スタッフを送ってくれるならば

 翌14日の午前8時ごろ、福島県学校経営支援課の阿部正春主任管理主事からの電話が学校に入った。

 

「双葉病院とドーヴィル双葉の患者を受け入れてもらえないか?」

 

患者の受け入れには医療体制が必要だし、毛布も暖房用の灯油も少なくなっていたことから田代校長はこの依頼を断った。

 

しかし午前9時ごろに阿部主任から再び電話がある。

 

「今、双葉病院の患者の搬送を開始したので午前10時か11時ごろにはそちらに着く」

 

阿部主任はこう言って、田代校長に改めて患者の受け入れを要請した。

 

医療スタッフ、毛布、布団、食料を用意して、いわき光洋高校に送ってくれるのであれば受け入れるが、それも一晩二晩だ。

 

田代校長は「県の調整も混乱しているのだろう」と事情をおもんばかり、条件付きで阿部主任の依頼を受け入れた。

 

これに対し阿部主任も校長に医療スタッフや物資などを準備する旨を約束する。

 

阿部主任からは、バス数台で双葉病院などの患者128名が来ると聞いているが、ここが単なる公立高校であり、医療体制がないことは話をしてある。

 

よもや重篤な患者が運び込まれるとは予想だにしない。

 

患者の容態について特に何も知らされていない田代校長は、精神科にかかっているだけで、体は健康な患者が来るのだとばかり思っていた。

福島県保健福祉部障がい福祉課

 午前10時か11時に到着するはずのバスが昼過ぎても到着しない。

 

午後1時30分ごろ、田代校長は阿部主任に確認の電話を入れた。

 

「バスはとっくに出ているはずなので、そろそろ着くだろう。」

 

と答えるものの、バスが現在どこにいるのか?どのルートを通ってくるのか?も阿部主任には分からなかった。

 

「どうやら福島県庁は患者を乗せて避難しているバスと連絡が取れないようだ…」

 

田代校長はそう感じた。

 

実際この時刻、第12旅団輸送支援隊の一行は、いわき光洋高校に到着するどころか、まだ南相馬市の相双保健所でスクリーニングを受けている最中だったが、この頃、いわき光洋高校から120キロ以上離れた福島県庁で、ついに県災害対策本部の決定的なミスに気付いた者が現れていた。

 

福島県保健福祉部障がい福祉課

 

障がい福祉課は、県災害対策本部とは別に、双葉病院などの患者の搬送先がいわき光洋高校の体育館だとの情報を得て、最終的な搬送先の病院を探し出す必要があるとの判断に至った。

 

そこから各病院に調整をかけ、福島県立医科大学付属病院、福島県立会津病院、竹田総合病院、会津西病院から計82名の受け入れを取り付ける。

さらなる不幸

 しかし、ここに来て一行をさらなる不幸が襲う。

 

各病院から受け入れの了承をもらい、障がい福祉課が連絡した時には一足遅く、第12旅団輸送支援隊のバスは相双保健所を出発していた。

 

通信状況が悪く、もうバスに連絡を取ることはできない。

 

福島県立医科大学付属病院は福島市にある。

 

スクリーニング場所の相双保健所のある南相馬市からなら約60キロ、通常なら車で1時間半ほどの距離だが、もしいわき光洋高校に着いてから、迂回路でまた県立医科大付属病院まで搬送すれば、その総距離は400キロ以上になる。

 

重篤な患者を乗せての400キロは、まさに「自殺行為」。

 

それでも福祉障がい課は、いわき光洋高校でバスとコンタクトできると考え、この連絡を双葉病院と同じ医療グループ「博文会」に属するいわき開成病院の職員に託した。

 

田代校長の元へ現れたいわき開成病院の職員は、「12日に大熊町が手配したバスで避難した双葉病院第1陣によりベッド数の倍の患者を受け入れていることから、これ以上の患者を引き受けることができない。」と、同系列のいわき開成病院がなぜ患者を受け入れられないかについて説明するとともに、障がい福祉課の菅野主査から県立医科大付属病院に避難させてもらう旨を依頼されたと田代校長に話した。

 

しかし夕方4時を過ぎてもバスは一向に到着しない。

 

田代校長は再び阿部主任にバスの状況を尋ねたが、相変わらず県ではバスの所在を確認できず、伝言のためにバスを待っていたいわき開成病院職員もいったん病院へ戻った。

 

その頃、第12旅団輸送支援隊の一行は、地震の被害により寸断され、どんなに急いでも時速50キロにまでも速度を上げることができない高速道路をひたすらに南下し、一路いわき光洋高校を目指していた。

 

 

(次回につづく)

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