• 東日本大震災

陸自史上最大の作戦 東日本大震災

 前編から約2年半を経て、あの連載がついに再開した。

陸上自衛隊史上最大の作戦となった「東日本大震災」。メディアが刻一刻と報じる裏側で指揮官たちは何を思い、何を考えて行動していたのか?

地震発生直後、陸自トップ火箱芳文陸上幕僚長(当時)のとっさの機転により、全国の陸上自衛隊はいち早く被災地に向かい、その結果より多くの命が救われた。しかし…

 火箱陸幕長率いる14万の陸上自衛隊の眼前には、自然の猛威に蹂躙され荒廃した大地が果てしなく広がる。

いつ終わるとも知れぬ災害派遣活動の中で、部隊は次第に憔悴の色を深めていく。

地震と大津波による災害への対処と福島第一原発事故という「二正面作戦」を強いられた陸上自衛隊。

どこまでいっても勝つことはない「自然災害との戦い」の先に、彼らを待ち受けていたものは?

第44回 大鷲の憂愁 獅子の涙(12)

メルトダウンの夜

 第12旅団輸送支援隊が双葉病院とドーヴィル双葉の患者・入居者128名を搬送し、いわき光洋高校に到着した3月14日の夜は、奇しくも官邸やオフサイトセンターが「日本の終わり」を最も身近に感じていた「メルトダウンの夜」だった。

 

東電からは福島第一原発2号機について、

 

18時22分 燃料棒露出

20時22分 炉心溶融

22時22分 圧力容器損傷

 

との予測が報告されている。

 

この日の午前11時01分に起きた3号機の水素爆発を受けて、福島第一原発の原子力災害対処は、陸上自衛隊最強の精鋭部隊「中央即応集団(CRF)」の担当となり、夕方4時にはCRFの今浦勇紀副司令が連絡調整役としてオフサイトセンターに入った。

 

そのオフサイトセンターの今浦副司令から、郡山駐屯地にいる堀口英利第12旅団長にもメルトダウンの情報は伝えられていた。

 

この情報の結果、第12旅団司令部がとった行動について、政府事故調査委員会の報告書はこのように記している。

 

 

第12旅団司令部は、3月14日20時頃から、報道等で『原発が危険な状態にある』との情報を断続的に得たため、21時15分頃、第12旅団の全部隊に対し、『一時退避せよ』との指示を出した。

 

 

しかし実際に起きたことは、事故調査委員会の報告書とややニュアンスを異にしていたようだ。

 

堀口第12旅団長が発した命令は「全部隊一時退避」ではなく、あくまで「MOPP(モップ)4」だった。 

 

NBC(核兵器、生物兵器、化学兵器)戦において、『任務志向防護態勢』と言う言葉がある。

 

かいつまんで言えば、「任務を行なう上で、どれだけ危険な状態に準備しなければいけないか?」と言う指標だ。

 

『任務志向防護態勢』では、危険レベルを0から4まで5段階に分けており、最高危険レベルは『MOPP(モップ)4』。

 

つまり堀口は、「高危険地域だから、あらゆる装備等を着用して事態に備えよ」と命令したの

であって、「一時退避せよ」と命じたわけではない。

 

しかし時を同じくして、東北方面総監部が第12旅団に対し無線で、「全部隊一時退避した方が良いのでは」と、いわゆる「作戦指導」のような形で促した。

 

この無線は、部隊によっては現場に展開している中隊レベルまで傍受できる。

 

こうして情報の錯綜と指揮の混乱が始まった。

 

自発的に「一時退避」する部隊が現れる一方で、第12旅団隷下の第30普通科連隊などは、連隊長が一時退避した中隊に対し、「第12旅団は退避せよとは言ってないぞ!」と現場復帰を命令している。

 

ただ、「原子力の深い霧」による目に見えぬ恐怖が、この夜、多くの人の心を混沌の渦に巻き込んでいたことは間違いない。

 

そして、それは同時刻に、いわき光洋高校も、第2陣を送り出した大熊町の双葉病院も、福島県全域で関係者の心を黒々と覆い、またもや新たな不幸を招きいれていた。

犠牲者数14名

メルトダウンだ。体育館の中に避難しろ!

 

自衛隊員の声が響く。

 

田代校長始め、患者の搬出作業を行なっていた全員が、患者をバスの中に置き去りにしたまま、体育館に避難した。

 

しばらく待ったが何も起きる気配はない。さすがにバスに患者を置き去りにしたままにするわけにもいかないから、搬出作業を再開することになった。

 

搬出作業を再開して間もなく、竹村医師、看護師2名、薬剤師1名からなる県立南会津病院からのDMATメンバーも到着し、患者たちの診察も同時に始まった。

 

この時点で、双葉病院からの患者のうち3名がすでにバス内で、2名が搬出作業中に息絶えていた。竹村医師によれば、朝まで持たない患者も数名いるという。

 

結局、患者の搬出にまつわるすべての作業が終わったのは翌15日の午前4時ごろだったが、搬出作業が終わる少し前に、また県学校経営支援課の阿部主任から田代校長に電話が入った。

 

福島県警のバスで、南相馬市の小高赤坂病院の患者66名と医療スタッフ20名が来るので受け入れてほしいとの要請だったので、田代校長はそれを了承した。

 

小高赤坂病院の医師は到着直後、「なんで受け入れの準備をしていないんだ。私たちが来るまで何をやっていたんだ。」と鈴木事務長に食ってかかったが、双葉病院からの患者の惨状を見て状況を察したらしく、すぐにおとなしくなった。

 

朝方になると小高赤坂病院の医師らは患者に必要な薬がほしいと依頼してきて、田代校長は阿部主任に調達の調整をするなど奔走していた。

 

しかしそれでも田代校長からすれば、患者のために医療スタッフが付き添い、さまざまな要求をする小高赤坂病院の対応が双葉病院の対応とあまりに対照的に見えて、双葉病院に対する怒りの感情がこみ上げるのを禁じえない。

 

結局、朝方までにさらに双葉病院の患者9名が亡くなり、いわき光洋高校だけで14名の死亡が確認された。 

 

コミュニティFM局で救援を

 こうした厳しい状況が続く中、田代校長のところへいわき地方振興局の職員2人がやってきた。

 

このままでは灯油も物資もなくなる。FMいわきでボランティアを呼びかけたいが許可してもらえないだろうか?放送内容は私たちの方で考える。

 

地元のコミュニティFM局で救援を求める。

 

燃料も食料も毛布などもほとんどなく、医療スタッフも決定的に足りない状況の中での窮余の一策だった。

 

田代校長は一にも二にもなく、振興局職員に対応をお願いした。

 

午前8時ごろ。FMいわきから、「いわき光洋高校に双葉病院とドーヴィル双葉の患者が避難してきているが、医師や灯油が不足している。」と訴える振興局職員の声が流れる。

 

すぐに反響があり、何人かの市民が灯油を高校まで持参し、また他の病院からも2名の看護師が来てくれた。

 

一方で、いわき光洋高校の事務職員10数名も朝になって学校に集まってくれた。

 

DMATの竹村医師は集まった事務職員を班編成して役割分担し、診断を進め、患者から名前を聞き出して患者リストを作成する。

 

15日になって、いわき光洋高校には患者の親族からの問い合わせの電話が入り始めており、カルテもないままに運び込まれた双葉病院の患者関係者に田代校長らが対応する上で、患者リストはこの上なく重宝した。

小高赤坂病院の患者なら

 だから「頼みの綱」と思っていた竹村医師から昼ごろに、「南会津病院に帰らなければならなくなった」と切り出された時、田代校長はかなりショックを受けた。

 

けれど竹村医師は一方で「小高赤坂病院の患者であれば、南会津病院に受け入れることができる。」と言ってくれた。

 

小高赤坂病院の患者に重症患者が少なかったこともあるのだろう。

 

竹村医師の調整もあり、昼食をとった後、午後3時ごろ小高赤坂病院の患者たちは南会津病院に搬送されていった。

 

まだ医療スタッフや物資の不足は続いているが、14日深夜から15日朝にかけての「地獄絵図のような状態」はいったん落ち着いている。

 

いわき開成病院の医師たちは当直からの徹夜続きだったこともあり朝方に1回帰ったが、小高赤坂病院の患者たちが引き取られた後に、いわき開成病院から新たな医師1名と看護師1名がやってきた。

 

田代校長によれば、その2人は亡くなった患者の死亡診断書を書くと、残された患者の診察をするでもなく、1時間ほどで挨拶もなく帰って行ったという。

 

決して100点満点とは言い切れない14日の第12旅団輸送支援隊の救助活動だが、のちのヒアリングで田代校長は、自衛隊の行動についてこう評価している。

 

 

自衛隊の隊長は、どうやら群馬から来た人らしく、私は名前や所属を思い出すことができないが、その隊長が冷静に淡々と指示を出し、陣頭指揮を取っていた姿を見て、非常に頼りになる隊長であると思った。私には自衛隊は、非常に統率の取れた動きをしているように見えた。

 

 

しかし第12旅団輸送支援隊にとって、これは「初陣」にしか過ぎず、この先にはさらなる過酷な運命が待ち受けていた。

 

 

(次回につづく)

バックナンバー

ページのTOPへ