• 東日本大震災

陸自史上最大の作戦 東日本大震災

 前編から約2年半を経て、あの連載がついに再開した。

陸上自衛隊史上最大の作戦となった「東日本大震災」。メディアが刻一刻と報じる裏側で指揮官たちは何を思い、何を考えて行動していたのか?

地震発生直後、陸自トップ火箱芳文陸上幕僚長(当時)のとっさの機転により、全国の陸上自衛隊はいち早く被災地に向かい、その結果より多くの命が救われた。しかし…

 火箱陸幕長率いる14万の陸上自衛隊の眼前には、自然の猛威に蹂躙され荒廃した大地が果てしなく広がる。

いつ終わるとも知れぬ災害派遣活動の中で、部隊は次第に憔悴の色を深めていく。

地震と大津波による災害への対処と福島第一原発事故という「二正面作戦」を強いられた陸上自衛隊。

どこまでいっても勝つことはない「自然災害との戦い」の先に、彼らを待ち受けていたものは?

第45回 大鷲の憂愁 獅子の涙(13)

具体的な目的地も分からないまま

 時を遡ること24時間前。14日の午後1時30分ごろ。

 

大熊町の双葉病院から132名の患者を搬送している第12旅団輸送支援隊は、スクリーニング会場である南相馬市内の相双保健所から、双葉病院に残してきた患者の大多数が寝たきりであることや患者の車両から車両への乗降が困難であることなどを郡山駐屯地の第12旅団司令部に報告していた。

 

この報告を受け、第12旅団司令部は救急車を中心にした追加の救援部隊を編制し、医官を同行させることを決める。

 

しかしそのためには第12旅団のみで対応するのは難しい。そこで上級司令部である東北方面総監部に対し支援を要請した。

 

この第12旅団からの要請を受け、近藤力也東北方面総監部防衛課長らは東北方面隊司令部として、方面隊直轄部隊である衛生隊と輸送隊で構成された「統合任務部隊」を編制し、派遣することを決めた。

 

東北方面衛生隊の棚橋浩治隊長は、地震直後から仙台市内にある霞目駐屯地に広域搬送拠点施設や医療拠点施設を設け、搬送される患者の対応をしたり、自衛隊仙台病院や各部隊に医療スタッフを送ったりしていた。

 

棚橋隊長が東北方面隊司令部から、その電話を受けたのは14日の夜。

 

原発事故による避難で取り残された病院・患者の救出を担任してもらうので、15日午前0時までに出発できるよう準備しろ

 

との予令(あらかじめの命令)。

 

具体的な目的地は明示されず、現地に行かなければ活動場所は分からなかった。

 

15日午前0時と言えば、あと数時間。大至急出発の準備をしなければいけない。

あまりに悲劇的な

 15日午前1時30分ごろ。薬剤官1名、医官1名、看護師3名、救急救命士1名、准看護師6名、その他の医療スタッフ5名からなる計17名の東北方面衛生隊は、救急車5台と小型車、先導車の編制で警務隊に先導されて、約130キロ離れた福島県の郡山駐屯地へ向けて出発した。

 

東北方面総監部の近藤防衛課長も同行した。

 

一行が郡山駐屯地に到着したのは3時間後の午前4時30分。郡山駐屯地で輸送隊の大型バス2台、マイクロバス1台も合流する。

 

近藤防衛課長は郡山駐屯地で第12旅団司令部のメンバーと病院リストをもとに、どの部隊がどの病院を担任するか打ち合わせを行なった。

 

その結果、双葉病院には東北方面衛生隊が行くことに決まる。

 

もともとは第12旅団輸送支援隊と旅団衛生隊も一緒に双葉病院に行く予定だったが、旅団輸送支援隊は、前日に双葉病院とドーヴィル双葉からの128名を16時間かけていわき光洋高校に搬送し、15日の朝に戻ってきたばかり。

 

隊員の休息も必要だが、地獄絵図のような惨状で車両も汚れきっており、清掃しなければとても新たな患者を乗せられない。

 

このため、東北方面衛生隊が先発し、第12旅団輸送支援隊と衛生隊は準備ができ次第、追って出発する手はずに決まった。

 

しかし後になって振り返れば、この決定も人知れず次なる不幸の引き金を弾いていた。

 

第12旅団輸送支援隊による「双葉病院の救出劇」は、とにかく「不幸つづき」の一言に尽きる。

 

「オイディプス王」のような「悲劇の名作」を生んだギリシャ古典悲劇ですら、こんなに不幸が追い打ちをかける脚本は作れないだろうと思うほどに。

 

第12旅団による救出第一陣(14日)もさまざまな不幸に見舞われたが、この第二陣(15日)にも「悲劇の序章」はすでに始まっていた。

原子炉が危険な状態に

 東北方面衛生隊が先発して、追って第12旅団輸送支援隊と旅団衛生隊が…、と述べたが、実は前日(14日)の昼過ぎに旅団輸送支援隊からの報告を受けた第12旅団司令部は、すでにその日の夕方、旅団衛生隊のみを救急車4台の編制で双葉病院救出に向かわせていた。

 

しかし14日の晩は「メルトダウンの夜」だ。第12旅団に「MOPP(モップ)4」の指示が出されたことから、双葉病院に向かっていた旅団衛生隊もやむなく郡山駐屯地に引き返している。

 

そして「原子力の深い霧」に覆われ、見えない恐怖におびえていたのは第12旅団ばかりではない。

 

福島県警と双葉病院も同じ恐怖に包まれていた。

 

14日午後9時58分。

 

鈴木院長とともに双葉病院にいた県警双葉署の副署長は、川内村役場に設置された双葉署緊急対策室から、「原子炉が危険な状態にあるから、現場から一時離脱せよ。」との無線指示を受けた。

 

「メルトダウン情報」は消防からもたらされたもので、双葉署緊急対策室が独自に判断した避難指示だった。

 

双葉病院内にはまだ患者が残されているがやむをえない。

 

副署長はワゴン車に鈴木院長やドーヴィル双葉職員らを乗せると、20キロ圏の境界線ギリギリに位置する川内村の割山峠まで避難した。

割山峠で自衛隊を待つ

 しかしわずか10分後の午後10時10分。

 

県警災害警備本部から「現時点で緊急の危険性はないので、救助活動を継続せよ。」との指示がある。

 

その指示を聞き、一行はおそるおそる双葉病院近くまで戻ってみた。

 

しかし第12旅団は全部隊に対し「MOPP4」を命じている。この時点で、大熊町から自衛隊車両はものの見事に1台もいなくなっていた。まさにゴーストタウンだ。

 

その荒涼とした夜の光景は、残された人々の恐怖心をいやが上にも煽り立てたであろう。

 

「大熊町内にとどまることは危険だ。」

 

一行はそう判断して、再び割山峠に戻った。やがて恐怖の一夜が終わり、あたりが白んでくる。

 

副署長は「第12旅団が双葉病院に救助に向かう」との情報を得た。

 

「ここで待機して、救助に来る第12旅団と合流しよう。」

 

一行はそう決めて、副署長は県警災害警備本部に対し連絡する。

 

割山峠付近で待機し、双葉病院救助の自衛隊を待つ。

 

この情報は県警災害警備本部から県災害対策本部に派遣されていた警察リエゾンに伝えられた。

 

しかし県災害対策本部内で再び「決定的なミス」が起きた。

 

またしてもこの情報が県災害対策本部内で共有されず、県庁に派遣されている第12旅団のLO(リエゾン・オフィサー=連絡将校)に伝えられることはなかった。

 

県災害対策本部内では、なぜこんなにも連絡ミスが起きるか?

 

政府事故調査委員会の報告書には、「当委員会は、この原因について調査したが、解明には至らなかった。」とのみ記されている。

 

15日午前7時。

双葉病院へ向けて東北方面衛生隊が郡山駐屯地を出発する。

 

東北方面衛生隊から遅れること1時間30分。午前8時30分に第12旅団輸送支援隊と旅団衛生隊も郡山駐屯地を発つ。

 

いずれの部隊も鈴木院長らが割山峠で待っていることも、だから双葉病院へ行っても病院関係者は誰一人いないことも知らぬままに、一路大熊町に向かっていた。

 

 

(次回へつづく)

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