• 東日本大震災

陸自史上最大の作戦 東日本大震災

 前編から約2年半を経て、あの連載がついに再開した。

陸上自衛隊史上最大の作戦となった「東日本大震災」。メディアが刻一刻と報じる裏側で指揮官たちは何を思い、何を考えて行動していたのか?

地震発生直後、陸自トップ火箱芳文陸上幕僚長(当時)のとっさの機転により、全国の陸上自衛隊はいち早く被災地に向かい、その結果より多くの命が救われた。しかし…

 火箱陸幕長率いる14万の陸上自衛隊の眼前には、自然の猛威に蹂躙され荒廃した大地が果てしなく広がる。

いつ終わるとも知れぬ災害派遣活動の中で、部隊は次第に憔悴の色を深めていく。

地震と大津波による災害への対処と福島第一原発事故という「二正面作戦」を強いられた陸上自衛隊。

どこまでいっても勝つことはない「自然災害との戦い」の先に、彼らを待ち受けていたものは?

第46回 大鷲の憂愁 獅子の涙(14)

このままここで死んでしまうのか…

 3月15日朝、大熊町のオフサイトセンター。

 

この頃になると度重なる水素爆発の影響からオフサイトセンター周辺も放射線量がかなり高くなっており、メンバーは午前中にも福島県庁へ撤退する予定になっていた。

 

このままここで死んでしまうのかなあ…

 

高田義宏住民安全班長の席から見えるデジタル表示の線量計は右肩上がりに増え、室内ですら数10マイクロシーベルト/時になっていた。

 

オフサイトセンターの外では800マイクロシーベルト/時を記録したらしい。

 

県庁への撤退の先遣隊として副知事らが出発した。

先遣隊が出てもまだオフサイトセンター内に100人ぐらいのメンバーが残るはずと高田班長は思っていたが、今や50人くらいしか見当たらない。

 

相当数が逃げ出したのだろう。

 

前日(14日)の搬送で、双葉病院から患者全員を避難させることができなかったから、高田班長はオフサイトセンターの陸自LO(リエゾン・オフィサー=連絡将校)に、救助活動をしている部隊名と電話番号を調べてもらい、救助部隊が「第12旅団」であることを知った。

 

高田班長が第12旅団司令部に電話すると、「明日(15日)引き続き救助を行なう」との回答。

 

第12旅団による救助は午前9時ごろからだと聞いたから、一足早く午前8時ごろ、高田班長は警察から来ている住民安全班員と二人連れだって、オフサイトセンターから約1キロ離れた双葉病院に向かった。

 

病院の中に入ると医師、看護師など病院スタッフの姿が見当たらず、患者だけが取り残されている。

 

広場のようなスペースにベッドが集められ、車いすの人は車いすに座ったままといった状態だった。

東北方面衛生隊の到着

 午前9時。ついに東北方面衛生隊が双葉病院に到着した。衛生隊の棚橋浩治隊長が病院の中に入ると、オフサイトセンターに詰めている朝霞駐屯地(東京・練馬区)から来たという中央即応集団(CRF)の自衛隊員1名がいた。

 

その自衛隊員が、病院スタッフがいないこと、別棟にも患者が残っていることなど、病院の状況を教えてくれた。

 

「現場での救出活動は時間との勝負だ。」

 

放射線量がかなり高くなっているから棚橋隊長はそう考え、医官に救出する患者の優先順位をつけるよう指示し、その優先順位にしたがって患者の搬出を行なった。

 

救出活動の最中、放射線管理は近藤力也東北方面総監部防衛課長が担当した。最初のうちは積算線量計が、たまにピッと鳴るくらいだったが、次第にその間隔が短くなっていく。

 

警告音は数秒に1回になり、やがては連続してピーと鳴りっぱなしになってしまった。

 

これ以上この場で活動を継続するのは難しいのではないか。

 

東北方面衛生隊は、1台に4人の患者を乗せられる救急車5台に、補助いすを使えば定員60名の大型バス2台のほかマイクロバスも1台ある。

 

最大で140人の患者を収容できるはずで、まだキャパシティに余裕はあったが、近藤防衛課長は棚橋隊長に救出の中断を相談した。

 

47名救出して一時中断

  近藤防衛課長の最大の懸念は、部隊に女性看護師5名がいたこと。

 

胎生被ばくなどの観点から女性の線量限度は5ミリシーベルト/3か月と定められている。

 

到着から約2時間。

 

午前11時ごろ、47名の患者を搬出したところで、近藤課長と棚橋隊長はいったん救出を中止した。

 

その頃には双葉病院に高田班長以外に県警の警察官もいたので、近藤課長は彼らに説明するために棚橋隊長と患者を乗せた車両を先に出発させた。

 

被ばく線量が高くなってきたので、患者を残して一時退却するのを了解してください。

 

そう説明した後、近藤課長は小型車両で移動しながら、線量が高くて救出できなくなったこと、病院に患者が数十名残っていること、病院スタッフがいなかったこと、病院は危険な状態なので後続部隊をすぐ入れてはいけないこと、などメールで東北方面総監部に状況を報告した。

 

原発周辺は携帯電話も無線も使えなかった。近藤課長は衛星電話を持っていたが、それすら10回に1回つながる程度。ただメールだけは確実に連絡が取れていた。

 

しかしすでに双葉病院に向かっていた第12旅団輸送支援隊に、この近藤課長の重要な報告が届くことはなかった。

不幸なすれ違い

 一方、近藤課長より少しばかり先に出発した棚橋隊長率いる東北方面衛生隊は、スクリーニング会場である南相馬市の相双保健所に向かったが、双葉病院を出てすぐに、これから双葉病院に向かう途中の第12旅団輸送支援隊の一行とすれ違っている。

 

この時に東北方面衛生隊が、第12旅団の一行を止めて情報交換さえしていれば、と後になって悔やまれるが、結果としては2つの部隊は、ただ単にすれ違っただけに終わり、少し遅れて出発した近藤課長はほんのわずかなタイミングのずれで第12旅団と出会っていない。

 

この「不幸なすれ違い」について近藤課長はヒアリングでこう述べている。

 

棚橋隊長は第12旅団とすれ違ったようであるが、私は第12旅団とはすれ違っていない。もし私がすれ違っていれば『いま行ってはだめだ』と言っていたはずである。

 

いずれにせよ、双葉病院の患者47名を乗せた東北方面衛生隊は、福島第一原発を避けるように国道6号線を迂回し、都路(みやこじ)街道こと国道288号線に出たが、道路は崩壊しており、立ち往生していた。

 

先導する警務隊に偵察させたが、その先も大型バスは通れない状況だった。

 

そんな時、棚橋隊長は中央即応集団(CRF)の自衛官と偶然に会い、「原発が危険な状況なので、ただちに20キロ圏外へ離れろ」と言われる。

 

そう忠告されて、土地勘のまったくない棚橋隊長らは、来た道をそのまま戻り始め、その途中で東北方面総監部に「別の除染所を教えてほしい」とメールする。

 

近藤課長の上官である東北方面総監部防衛部長が指示してきたスクリーニング会場は、双葉病院のある大熊町から西に45キロほど離れた田村市の総合体育館。

 

東北方面隊衛生隊は、今度は都路街道を逆に西へ進み、田村市総合体育館を目指し始めた。

西病棟の患者に気づかぬまま

 午前11時30分ごろ。

 

東北方面衛生隊と入れ違いに第12旅団輸送支援隊と旅団衛生隊が双葉病院に到着した。

 

しかしその頃の双葉病院には患者以外、関係者は誰も残っていなかった。

 

県災害対策本部の混乱から、割山峠で「待ちぼうけ」を食った鈴木院長ら病院関係者はもちろん、オフサイトセンターの撤収が午前11時となっていたから、そこから来たメンバーももういない。

 

高田住民安全班長も11時30分近くまで残っていたが、本当にわずかな差で双葉病院を離れ、福島県庁へ向かっていた。

 

CRFの宮島俊信司令官から「(オフサイトセンターを)撤収するのは認めるが、自衛隊を一番最後に、全員異常なしを確認してから撤収するんだぞ。」と厳命されていたオフサイトセンターの今浦勇紀副司令が、宮島司令官に撤収前の最後の報告をしたのが午前10時59分。

 

病院の状況を詳細に東北方面衛生隊に教えたCRFの自衛官も、オフサイトセンターで最終確認作業を終え、今浦副司令らと県庁へ向かう車中だろう。

 

双葉病院はそれなりに規模の大きな病院だ。

 

建物は東病棟、中央管理棟、西病棟の3つに分かれており、東病棟には重症患者が、西病棟には比較的症状の軽い患者が多く入っている。

 

医官が搬出の優先順位をつけて作業を行なった東北方面衛生隊は東病棟から主に患者を搬出している途中で退却した。

 

さらに空間線量が増加している中、第12旅団輸送支援隊と衛生隊は、東病棟で東北方面衛生隊が残した患者7名を発見し、車両へと搬出する。

 

そして悲しいかな、別棟の西病棟にまだ35名の患者が残されていることに気づかないまま、第12旅団輸送支援隊と衛生隊は双葉病院を後にしてしまった…

 

 

(次回につづく)

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