• 東日本大震災

陸自史上最大の作戦 東日本大震災

 前編から約2年半を経て、あの連載がついに再開した。

陸上自衛隊史上最大の作戦となった「東日本大震災」。メディアが刻一刻と報じる裏側で指揮官たちは何を思い、何を考えて行動していたのか?

地震発生直後、陸自トップ火箱芳文陸上幕僚長(当時)のとっさの機転により、全国の陸上自衛隊はいち早く被災地に向かい、その結果より多くの命が救われた。しかし…

 火箱陸幕長率いる14万の陸上自衛隊の眼前には、自然の猛威に蹂躙され荒廃した大地が果てしなく広がる。

いつ終わるとも知れぬ災害派遣活動の中で、部隊は次第に憔悴の色を深めていく。

地震と大津波による災害への対処と福島第一原発事故という「二正面作戦」を強いられた陸上自衛隊。

どこまでいっても勝つことはない「自然災害との戦い」の先に、彼らを待ち受けていたものは?

第47回 大鷲の憂愁 獅子の涙(15)

田村市総合体育館

 15日午後、東北方面衛生隊は東北方面総監部から指定されたスクリーニング会場である田村市総合体育館に到着した。

 

体育館にはすでに住民の長蛇の列ができている。

 

棚橋浩治東北方面衛生隊隊長は、会場の責任者にスクリーニングを頼んだが、「双葉病院の患者のスクリーニングを実施するという話は聞いていない。」とにべもなく断られた。

 

ちょうどその時、患者7名を救出した第12旅団輸送支援隊と衛生隊の一行も田村市総合体育館に到着した。

 

棚橋隊長は第12旅団に「田村市ではスクリーニングが受けられないようだ」と伝える。

 

棚橋隊長は会場側と何度も交渉したがらちがあかないため、事務所の電話を借りて東北方面総監部に「他の除染所を教えてほしい」と連絡した。

 

東北方面総監部が次のスクリーニング会場として指定したのは、田村市から約40キロ離れた二本松市の男女共生センター。

 

棚橋隊長はそのことを第12旅団にも伝え、2つの部隊は一緒になって二本松市へ向かった。

二本松市男女共生センター

 二本松市男女共生センターのスクリーニング会場では自衛隊が除染作業をしていた。

 

東北方面総監部が「二本松市に双葉病院の患者が向かう」と前もって伝えてくれたようで、双葉病院の患者専用に別のテントまで用意して待っていた。

 

そのうちに県がチャーターしたバス2台も会場に到着したが、相変わらず双葉病院からの患者の受け入れ先はまだ決まっていない。

 

東北方面総監部からのメールで、今回のミッションは「県がチャーターしたバスに患者を乗せ換えさせたら終了」ということは分かっていたが、棚橋隊長からすれば必死の思いで救出した患者だったから、なんとかしたいという思いがあった。

 

棚橋隊長は二本松市男女共生センターの事務所で、県の職員とともに受け入れ先病院の調整に加わった。

 

棚橋隊長としては、二本松市から約25キロの距離にある福島市の県立医科大学附属病院に連れて行きたかったが、県立医科大附属病院から拒否されたらしく、結局バスに県職員を同乗させて、いったん県庁へ向かうということで調整は決着した。

 

調整が終わって県の職員と事務所の外に出てみると驚いたことに県のバスがいない。

 

自衛隊車両から患者を乗せ換えた後、バスの運転手がしびれを切らせ、県立医科大附属病院に向けて勝手に出発してしまった後だった。

 

もうこれ以上、自衛隊の出る幕はない。2つの部隊は二本松市を離れ、帰路に着いた。

驚愕の事実 最後の救出

 しかしこの帰路の途中、第12旅団衛生隊の部隊長は隊員から驚愕の事実を報告される。

 

スクリーニング場所で、統合任務部隊(東北方面隊衛生隊)の医官から、双葉病院の別棟にまだ患者が残っているはずだとの情報提供を受けた。

 

その時の現場指揮官たちの驚愕と焦りは想像に難くない。文字通り「戦慄が走った」ことだろう。

 

午後7時に郡山駐屯地に帰投した部隊長たちは、堀口英利第12旅団長に事の次第を報告し、判断を仰いだ。

 

すでに前日の段階でメルトダウンの危機に瀕して「MOPP(モップ)4」が出されているくらい原発周辺の状況は緊迫度を増しており、15日はさらに空間線量も増えている。

 

堀口旅団長は、ふたたび「住民の避難という任務」と「隊員の命」の選択を迫られたが、決断は「GO!」だった。

 

第12旅団司令部は、旅団輸送支援隊の大型バス1台、マイクロバス2台、旅団衛生隊の救急車7台からなる混成部隊を編制し、午後9時15分ごろ、ふたたび双葉病院へ向けて最後の救助部隊を出発させた。

 

この部隊が双葉病院に到着したのは、翌16日の午前0時35分ごろ。

 

午前4時までに西病棟に残された35名の患者全員を搬出し、二本松市のスクリーニング会場に搬送し、任務を終えた。

犠牲者の数は50名

 これが「双葉病院の救出劇」にまつわる顛末のすべてである。

 

救助の手が届く前に病院の中で亡くなった人、医療スタッフもいない長い搬送の途上で命を落とした人、受け入れ先が見つからずたらい回しにされている間に息を引き取った人…

 

結局、5日間にわたる一連の救出劇の中で、犠牲者の数は50名にのぼった。

 

もし、担当した部隊が群馬から来た第12旅団ではなく、宮城県石巻市に転進した森脇良尚連隊長率いる福島の郷土部隊 ー 第44普通科連隊だったら、と指摘する向きもある。

 

もし福島県の地理に明るい第44連隊だったら、よもや「オフサイトセンターの場所が分からない」などということはなかっただろう。

 

もし福島県の地理に明るい第44連隊だったら、220キロに及ぶ長大な迂回路を選択しただろうか?

 

もし県知事以下、県庁の災害担当職員と顔見知りな森脇連隊長が福島県庁にいたら、県災害対策本部内での情報の伝達ももっとうまくいったのではないか?

 

もし…

 

事が起こった後に「もし」をいくら考えてもやるせない。

 

もし郷土部隊が残っていたとしても、同じような悲劇は起きたのかもしれない。

 

しかしいずれにせよ、この「不幸な救出劇」は、犠牲者やその家族はもちろん、病院も、救出する側の県も警察も消防も、そして第12旅団も、そのすべての関係者の心に深い傷を残す結果となった。

 

双葉病院は、「患者置き去り報道」をめぐって県を訴えたが、のちに県が名誉毀損を認め和解している。

情報化社会への警鐘

この悲劇を改めて俯瞰してみると、多くの小さな不幸が連鎖し、状況が錯綜し、さらなる事態の悪化につながっている。

 

これを特定の個人や組織の責任に帰すのはたやすい。

 

しかし、ここに少しでも前向きな教訓を見出そうとするなら、決定的な幾つかの人的ミスを除き、いずれの不幸にも、その不幸が起きるべきベースとも言える共通の条件も見えてくる。

 

それは誰もが知っている通り、当時、原発周辺の通信がほぼ完全に遮断されていたという事実。

 

通信手段さえ持ち合わせていれば、個々の不幸は取るに足らないものなのに、「音信不通」になった瞬間、それらは相互に連鎖し、事態の悪化を生み出す。

 

誰もが当たり前のように使っている携帯電話など、リアルタイムに情報を交換できる「文明の利器」が、ともすれば壊れやすい我々の社会システムを日頃どれだけ助けているのだろうか。

 

逆に言えば、それが途絶するだけで、どれだけの行き違いがこの社会に生じ、非常時ともなれば、個々人がどれだけ厳しく重い判断をその場その場で求められるかという現実。

 

たかだか数十年前まではそれが当たり前の時代だったが、「携帯できる連絡手段がない」ということは、どんなに事情が変わっても「行動着手後の修正は効かない」ということを意味する。たとえそれが、他愛のない「待ち合わせ」という行為だったとしても…。

 

だから人々は、事前に綿密な連絡を取り、「段取り」という行為を重視しつつ、いざという時に「機転を利かす」 ことを学ばされた。

 

「巨大災害の時も常に連絡可能な携帯通信デバイスを」と言うのは、楽観的に過ぎるだろう。

 

この悲劇は、「情報や判断は無尽蔵に、そしていつでもリアルタイムに携帯1本で修正や微調整が効く」と思い込んでいる、文明の利器に飼いならされた我々への手痛い警鐘だったと言えるのかもしれない。

 

次回につづく)

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