• 東日本大震災

陸自史上最大の作戦 東日本大震災

 前編から約2年半を経て、あの連載がついに再開した。

陸上自衛隊史上最大の作戦となった「東日本大震災」。メディアが刻一刻と報じる裏側で指揮官たちは何を思い、何を考えて行動していたのか?

地震発生直後、陸自トップ火箱芳文陸上幕僚長(当時)のとっさの機転により、全国の陸上自衛隊はいち早く被災地に向かい、その結果より多くの命が救われた。しかし…

 火箱陸幕長率いる14万の陸上自衛隊の眼前には、自然の猛威に蹂躙され荒廃した大地が果てしなく広がる。

いつ終わるとも知れぬ災害派遣活動の中で、部隊は次第に憔悴の色を深めていく。

地震と大津波による災害への対処と福島第一原発事故という「二正面作戦」を強いられた陸上自衛隊。

どこまでいっても勝つことはない「自然災害との戦い」の先に、彼らを待ち受けていたものは?

第48回 大鷲の憂愁 獅子の涙(16)

行方不明者捜索フェーズへ

 第12旅団が原子力の深い霧に包まれ傷を負っていたその頃、宮城県石巻市へ転進した森脇良尚連隊長率いる第44普通科連隊は、自分たちが後にした郷土福島県が大変な状況に見舞われていることをメディアなどの断片的な情報で知りつつも、日々の任務に忙殺されていた。

 

すでに地震発生から約1週間が経過している。当初はボート作戦で手当たり次第に人命救助を行なっていたが、状況は人命救助の段階から行方不明者捜索=遺体捜索のフェーズに移行しつつあった。

 

当初は一面冠水し、番地すら分からなかった石巻市だが、水が引き始め、詳細な番地も把握できるようになると、発見される遺体の数も飛躍的に増えていった。

 

森脇は中隊単位で担当するエリア分けをし、午前中は第1中隊、午後は第2中隊、夜は第3中隊と一日中石巻市内に展開する中隊を回って指示を出し続ける。次第に自治体機能が回復し始めると役場の職員も同行させ、自分たちの作業を説明するとともに、捜索に関するニーズを確認したりもした。

  

一丁目ごとに地図と照合し、東西南北から何回も何回も捜索して、捜索を終えた場所には「捜索済み」の紙を貼っていった。

 

しかし、石巻市内では津波の襲来とともに、大規模な火災も発生している。がれきの山の中で、火災により黒く焼け焦げた遺体は発見しづらく、注意しても見過ごしがちになる。

 

部隊から「捜索完了」の報告が上がると、森脇自らがその現場に赴き、くまなく見て回る。

 

そして隊員がまだ作業していないとおぼしき場所を見つけると、「あの捜索をしていない所をもう一回やれ」と、細かく指示を出した。

もう一度行かせてください

 第44連隊が転進してから10日ほど経った頃から、1日に発見される遺体が100体を超えるようになった。

 

上級部隊の第6師団からは、「ご遺体は、生きている方のように大事に扱え。」と厳命されている。

 

中には、母子が手をつないだままで亡くなっている遺体も見つかる。遠く福島に妻や子どもを置いてきた隊員にとっては、「もし自分の家族だったら…」と身につまされ、そして家族の安否も気遣われる。

 

相変わらず余震も続いており、もしまた大津波が発生したら、今度は自分が家族を悲しませることにもなりかねない。

 

一方、捜索現場では、流された跡から金庫などの大事な物も出てきており、作業する傍で、住んでいた人々が隊員の活動をずっと凝視している。

 

隊員たちの疲労とストレスも急激に高まっていた。ついに一人の隊員の心が折れ、これ以上の作業継続は難しいと判断して、福島駐屯地に帰した。

 

しかし、その隊員も駐屯地に帰るとすぐに、「もう一度行かせてください。」と現地部隊への帰還を願い出て、森脇もそれを認めた。

 

すでに隊員たちは肉体的にも精神的にも極限状況にあったが、それでも「郷土福島に帰りたい。」と声に出して言った者はいなかった。

毎日の目標を明確に

 こうした隊員の精神的ストレスを少しでも和らげるために、清水一郎陸自最先任上級曹長の進言により各部隊で始まった「解除ミーティング」を第44連隊でも行なっていたが、森脇はさらに、「少しでも隊員の目標を明確にしよう。」と考えた。

 

石巻市は、被災地の中でも類を見ない甚大な被害を被った場所だ。その中で毎日発見される遺体の数だけがひたすらに積み上がっていく。

 

地平の遥か彼方まで続く惨状の前に、「ゴールがまったく見えない」という絶望感めいた感情が、隊員たちの心を深く蝕んでいるのは明らかだった。

 

「全体のゴールが見えないのはやむをえないが、せめて毎日の目標を明確にしよう。」

 

森脇はこう考え、毎日、「今日は何丁目の捜索を完了させる。」と各部隊の作業目標を明らかにさせ、その目標が早く終えられた場合には、がむしゃらに次の場所の捜索に取りかかるのではなく、その日は早めに宿営地に帰投させた。

 

ぎりぎりの所で、精神の均衡を取りながら進める行方不明者の捜索は、どこまで行っても捜索する側も、見つけてもらう被災者家族の側にも、双方に重いものを突きつける結果にしかならない。

 

しかし被災者に対する生活支援は、少しでも人々の笑顔を見ることができる。それは被災者にとってもわずかばかりの救いになっていたことはもちろんだが、隊員たちにとっても前向きな気持ちになれる瞬間だった。

希望の渡し湯

 それは一般隊員のアイディアから始まった。

 

「渡河ボートにブルーシートを敷いて、お湯を入れたら浴槽代わりに使えるんじゃないでしょうか?」

 

被災者の入浴支援をしたいが、陸上自衛隊が持っている「野外入浴セット」の数にも限りがある。

 

だが市内一面が冠水していた時に、人命救助に使った渡河ボートならたくさん手元にあったから、それを浴槽に使おうというのだ。

 

この提案を聞き、今度は副連隊長がこんなアイディアを出した。

 

「それなら故郷の福島から温泉のお湯を運んで、温泉を楽しんでもらうというのはどうでしょう?」

 

温泉大国「福島県」の部隊ならではの思いつきに、森脇は福島駐屯地に残した部隊に連絡して、早速、第44連隊の地元、福島市にある土湯(つちゆ)温泉の温泉旅館と調整をさせた。

 

旅館側も気持ち良く、温泉のお湯を無料で分けてくれるという。

 

 

止まっていた時間

 3日に1回ぐらい、1トンほどの温泉を福島市から運び、沸かしたお湯に混ぜて、つかの間の「温泉気分」を楽しんでもらう。

 

この「温泉支援」は「希望の渡し湯」と名付けられ、各中隊持ち回りで管理することになった。

 

そして森脇は「何しろ被災者の方の心が少しでも和むよう、工夫しろ。」と部隊に指示を出した。

 

ある中隊が、入浴したお年寄りにマッサージサービスをすると聞けば、他の中隊は「おもち」を焼いて出すといった具合になり、この「にわかリラクゼーション施設」は、特にお年寄りの被災者からは喜ばれていた。

 

震災前の幸せな時間…

 

3月11日、震災が発生する直前、森脇率いる第44連隊は恒例の炊事競技会を開いていた。多くの関係者が集まり、笑い声が溢れていた福島駐屯地。

 

隊員たちにとっては、それ以来止まっていた時間、凍りついていた笑顔が、つかの間でも戻る瞬間だったのかもしれない。

冷ややかな空気

森脇たちが石巻市に転進してから、あっという間の時が流れた。

 

石巻市の人々を助けるために日々、任務に没頭していたが、一方で福島の獅子たちが、残した郷土福島のことを片時も忘れたことはなかった。

 

数週間経ったある日、森脇は自分たちの活動を報告するために、石巻市での写真など10数部を携え、単身福島に戻った。

 

福島県庁、福島市、協力団体などに、石巻市の惨状と、やむをえない状況の中で自分たちが活動していること、そして石巻市での任務を一刻も早く完遂し、福島のために貢献したいという意思があることを説明したかった。

 

しかし協力団体などはともかく、福島県庁に流れる空気は正直、いささか冷ややかだった。

 

これまでお互いに寄り添って協力してきたこともあるだろうし、この瞬間も福島県は福島第一原発の放射能の脅威にさらされている。そしてさらには双葉病院のような不幸な事故も起きてしまっている。

 

「見捨てられたと感じるのも無理からぬこと」と相手の感情を理解する一方で、自分たちの思いが伝わらないことが残念でならなかった。

 

郷土部隊として、郷土に「裏切り」めいた感情を抱かれることはあまりにも切ない。

 

しかし、そんな獅子たちの涙に応えるかのように、森脇の知らぬところで、運命の歯車はすでに動き出していた。

 

上級司令部である第6師団から、陸上自衛隊トップである火箱芳文陸幕長が、3月29日に石巻市を視察のために訪れるとの連絡が入った。

 

それは森脇ら福島の獅子たちにとって、運命が再び変わる静かな前兆だった。

 

 

次回につづく)

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