• 東日本大震災

陸自史上最大の作戦 東日本大震災

 前編から約2年半を経て、あの連載がついに再開した。

陸上自衛隊史上最大の作戦となった「東日本大震災」。メディアが刻一刻と報じる裏側で指揮官たちは何を思い、何を考えて行動していたのか?

地震発生直後、陸自トップ火箱芳文陸上幕僚長(当時)のとっさの機転により、全国の陸上自衛隊はいち早く被災地に向かい、その結果より多くの命が救われた。しかし…

 火箱陸幕長率いる14万の陸上自衛隊の眼前には、自然の猛威に蹂躙され荒廃した大地が果てしなく広がる。

いつ終わるとも知れぬ災害派遣活動の中で、部隊は次第に憔悴の色を深めていく。

地震と大津波による災害への対処と福島第一原発事故という「二正面作戦」を強いられた陸上自衛隊。

どこまでいっても勝つことはない「自然災害との戦い」の先に、彼らを待ち受けていたものは?

第50回 大鷲の憂愁 獅子の涙(18)

兵の引き際

 三国志や孫子の兵法を持ち出すまでもなく、名将の大事な資質の一つは「兵の引き際」だ。

 

最も上策なのは「戦わずして勝つこと」だが、いったん兵を出したならば、できるだけ速やかに兵を退くタイミングを計ることが望まれる。

 

古来、出兵を長引かせて良い結果が生まれたためしはない。それどころか撤退のタイミングを見誤ったために負けた戦、出さなくて良い犠牲を出した戦の例は枚挙にいとまない。

 

東日本大震災で史上最も迅速に部隊を動かした火箱芳文陸幕長も、派遣を命じたその瞬間から「撤退のタイミング」のことが常に頭の片隅にあった。

 

画期的なスピードで人命救助に邁進する自衛隊の活躍を報じるメディアの映像、「決死的」とも言える3月17日のヘリからの福島第一原発への放水作業と、オバマ大統領からの賞賛の電話。

 

そしてそれ以来、180度方向転換したかのように「自衛隊びいき」に転じた菅直人総理を始めとする政府・官邸の態度。

 

政治と制服組の急速な接近は、「シビリアン・コントロール(文民統制)が効いている」とも言えるが、一方で、ともすれば情緒に流されやすい政治の判断に部隊運用が影響を受けかねない。

 

いつまでも、どこまでも自衛隊が被災地を支援できるわけではないし、そもそも自衛隊が自治体の役割を肩代わりしている事態が異常なのだ。

 

どんなに精強な軍でも、無限に活動を続けられるわけではない。

 

「自衛隊を被災地から撤収するタイミング」といった議論を口にするのもはばかられるような状況に、火箱は漠然とした不安を感じずにはいられなかった。

1ヶ月間の人事発令延長

 それに火箱には、もっとせっぱ詰まった実際的な悩みもあった。

 

戦前には「軍令(=戦争のための指揮・作戦計画)」と「軍政(=軍を維持するための行政)」という言葉があったが、現在の陸上自衛隊において陸上幕僚長は、その肩書きから受ける語感とは裏腹に、直接指揮する部隊を持たず、業務の大半は「軍政」に関与している。

 

その際たるものが「人事」だ。陸上自衛隊の春の定期異動は毎年3月20日前後だが、地震発生からわずか2日後の3月13日に、火箱は中江公人防衛事務次官と1か月間の陸自幹部の人事発令延期について調整を行なっていた。

 

「1か月もあれば、災害派遣にも何とかメドが立つだろう」

 

そんな読みだったが、3月下旬になっても事態の収束は全く持って見えてこない。

 

このままいくと4月中旬には主要な指揮官を交代させなければならず、それまでに災害派遣に一定のめどをつけて派遣部隊を部隊交代させ、規模を大幅に縮小して通常の体制に戻さないと、教育訓練を始めとする陸上自衛隊の「業務計画」は、大幅な修正を余儀なくされてしまう。

 

それはあまりにも各方面への影響が大きすぎる。

 

そんな焦燥感も胸に抱きながら、火箱は3月29日の森脇連隊長ら石巻市に展開している部隊の視察を皮切りに、矢継ぎ早に現地視察を敢行し始めた。

調整一元化の試み

 3月29日に宮城県石巻市に展開する森脇連隊長以下の第44普通科連隊を視察した火箱は、そのわずか3日後の4月1日、今度は岩手県北部に展開する第2師団を訪れた。

 

第2師団は北海道旭川市に師団司令部を置き、名寄、留萌、遠軽、上富良野に隷下部隊を駐屯させている、いわば北海道の北半分を守る部隊だ。

 

被災地との間には青函海峡が横たわっているが、地震直後に火箱のかけた大号令により、航空自衛隊の輸送機や急遽チャーターした民間フェリーで海を渡って駆けつけてきた。

 

こうした部隊が、広い岩手県の太平洋沿岸に進出しているが、最高指揮官の田中敏明第2師団長も自ら宮古市に前方展開し、指揮所を構えていた。

 

第2師団は福島県における第12旅団と同様に、各自治体とは初対面で意思疎通もままならない。おまけに第二師団が担当する宮古市以北の岩手県太平洋沿岸には、洋野町、久慈市、野田村、普代村、岩泉町、田野畑村、山田町と多くの自治体があり、それぞれの自治体によりニーズも微妙に異なる。

 

こうした問題を解決し、活動を効率的に行なうため、師団長自らが指揮する前方指揮所を宮古市に構え、各自治体との調整をそこに一元化していた。

 

この田中師団長の策が効を奏し、各自治体と第2師団は初対面同士とは思えない連携プレーで活動が進んでいる。

 

「この地区は、一番早くガレキ処理まで終わるかもしれない。宮城県の被害が甚大なので、終了後は宮城に投入されることもある。」

 

こう話す火箱に対して、田中師団長は胸を張って答えた。

 

「できるだけ早く行方不明者の捜索、ガレキ処理を終了したいと思いますので、どこにでも投入してください。」

 

それは喜ばしい報告である一方で、「活動の幕引き」を思案している火箱にとっては、岩手・宮城・福島の各県において活動の進捗に差が出始めていること、そしてそれは先々、派遣期間が長引くことの遠因になりかねないことを予感させていた。

調整は距離に反比例する

 岩手県宮古市の視察からわずか2日後の4月3日、火箱は第12旅団が展開する福島県を訪ねた。

 

3県の中では比較的被害の少ない岩手県北部と福島第一原発事故の対応に苦戦している福島県を比較すること自体酷な話だが、火箱は福島県に入り、何か歯車がかみ合っていない空気を感じ取っていた。

 

福島県災害対策本部が福島市の県庁そばにあるのに対し、堀口英利第12旅団長が司令部を置いたのは50キロも離れた郡山駐屯地。

 

さらに、政府が福島第一原発事故対処の最前線として設置した楢葉町のJビレッジ(原子力災害対策現地連絡所)までは、県庁から原発事故の迂回路を通って行くと、なんと147キロ、郡山駐屯地からでも116キロも離れている。

 

宮古市の前方指揮所で各自治体の首長らと顔突き合わせて事細かく調整している田中第2師団長の姿とは対照的な状況だった。

 

いくらIT化が進んでも、非常事態においての調整のきめ細やかさは、距離に反比例する。堀口が県知事と顔突き合わせて話すだけで1時間弱、Jビレッジまで赴くためには2時間近くもかかってしまう状況は、福島県の混迷を如実に表していた。

 

3月14日の晩に、「最高危険レベルに対応せよ」という「MOPP4」の指示を出したことについて、申し訳なさそうに火箱に説明する堀口の表情には、ありありと憔悴の色が浮かんでいた。

 

 

(次回につづく)

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