• 東日本大震災

陸自史上最大の作戦 東日本大震災

 前編から約2年半を経て、あの連載がついに再開した。

陸上自衛隊史上最大の作戦となった「東日本大震災」。メディアが刻一刻と報じる裏側で指揮官たちは何を思い、何を考えて行動していたのか?

地震発生直後、陸自トップ火箱芳文陸上幕僚長(当時)のとっさの機転により、全国の陸上自衛隊はいち早く被災地に向かい、その結果より多くの命が救われた。しかし…

 火箱陸幕長率いる14万の陸上自衛隊の眼前には、自然の猛威に蹂躙され荒廃した大地が果てしなく広がる。

いつ終わるとも知れぬ災害派遣活動の中で、部隊は次第に憔悴の色を深めていく。

地震と大津波による災害への対処と福島第一原発事故という「二正面作戦」を強いられた陸上自衛隊。

どこまでいっても勝つことはない「自然災害との戦い」の先に、彼らを待ち受けていたものは?

第54回 大鷲の憂愁 獅子の涙(22)

運命の巡り合わせ

 陸上自衛隊 富士学校。標高約830メートル。富士山の裾野に総面積約23万坪の広大な敷地が広がる。

 

普通科(歩兵)、特科(砲兵)、機甲科(戦車・偵察車)の3職種について、知識・技術などを教育訓練する施設で、幹部自衛官のための幹部レンジャー課程などもここで行われる。

 

3月11日午後2時46分。富士学校副校長の塩崎敏譽(としよ)陸将補は、富士学校のすぐそばで、その瞬間を迎えた。

 

横にいた人が、「気持ちが悪い」と言っている。よく見ると近くの池の水が揺れていた。周辺の市街地は信号すら消えている。

 

 

「陸上自衛官でありながら、国家存亡の大災害の時に直接、役に立てない…」

 

 

塩崎は、この時に富士学校の副校長である運命の巡り合わせを、正直無念に感じていた。

 

例年なら3月20日ごろに人事異動の発令がある。今回は自分も異動対象者で、順当にいけば旅団長か方面隊幕僚長に転出できるだろうと思っていた。

 

中でも機甲科出身、つまり「戦車乗り」として、いわば「一番重くて一番強い機動部隊」にいた身としては、正反対のヘリコプターを駆使する「一番軽くて一番早い機動部隊」である第12旅団はとても興味惹かれる。

 

そして日々、中国の脅威にさらされる、南西防衛の要である沖縄の第15旅団。

 

この2つの部隊が塩崎の希望する最有力候補だった。

 

しかし東日本大震災の発生により、今や人事発令自体が吹き飛んでしまっている。

 

 

こう着状態を打ち破る起爆剤

 富士学校からも増強幕僚として東北に召集がかかるが、副校長である塩崎はただ送り出す立場。

 

そしてメディアからは被災地での陸上自衛隊の活躍や苦闘の報が毎日のように流れ、塩崎の耳に入る。

 

しかし、地震から約1か月過ぎた4月10日ごろ、そんな塩崎に、ついに人事異動の内示が伝えられた。

 

4月27日付。第12旅団長。

 

「厳しい任務だが、しっかり頑張らなきゃならんな。」

 

原発事故の対処に苦しむ福島県に展開する第一線部隊だから、厳しい状況にあるのは承知の上。それでも塩崎には「第12旅団に是非行きたい」と思えた。

 

そして市ヶ谷防衛省でも、火箱陸幕長が、塩崎の第12旅団長就任に密かに期待を寄せていた。

 

前任者の堀口がどちらかといえば繊細でスマートなタイプだとしたら、塩崎は自身が重戦車のようなパワフルなタイプ。

 

火箱は「30キロ圏内の行方不明者捜索」について、塩崎が現在の「こう着状態」を打ち破る起爆剤になってくれれば、と願っていた。

第12旅団長の独言

 塩崎の赴任先は、現在進行形で未曾有の原子力災害と自然災害の最前線で戦っている第12旅団だ。堀口から引き継ぐべき事項はかなりの量になるだろう。

 

内示を受けた塩崎は、着任前に引き継ぎ作業を完了すべく、郡山駐屯地に堀口を訪ねた。

 

引き継ぎ事項は多岐に渡るかもしれないが、この瞬間も福島県の対応を継続している第12旅団長に長い時間を割いて打ち合わせしてもらうことはいささか心苦しい。

 

しかし堀口は一冊の分厚いファイルを塩崎に渡して、ただこう言った。

 

 

これをお前だけに渡すから、読んでおいてくれ。これを読んだら全部分かるから。

 

 

大した会話もなく引き継ぎの打ち合わせは終わり、塩崎は「東日本大震災 第12旅団長の独言」とだけ水色の表紙に表題書きされたファイルを受け取ると、持ち帰って、一人その内容を読み始めた。

 

そこには几帳面な性格の堀口らしく、第12旅団のこれまでの活動の経緯と状況説明や課題点、問題点などがきれいな字で克明に記されていた。

 

そしてそこからは、「大鷲たち」がどのように傷つき、重責とさまざまな物の板挟みの中で部隊指揮官がどれほど苦悩していたかが、手に取るように感じられた。

屋内退避区域の行方不明者捜索

 塩崎が内示を受けてから約1週間後の4月18日。ついに事態が進展した。

 

折木良一統幕長は「30キロ圏内の海空域を含む地域における行方不明者の捜索活動の実施」を君塚栄治JTF東北司令官に指示。

 

合わせて宮島俊信CRF(中央即応集団)司令官に、「行方不明者捜索活動等への所要の支援等の実施」を指示し、CRFに統合任務部隊への支援を命じた。

 

これにより、火箱が企図した通り、まず30キロ〜20キロ圏内(屋内退避区域)ではあるが、第12旅団とCRF隷下の第一空挺団を主力とする行方不明者捜索が始まった。

 

第12旅団隷下の第13普通科連隊と第一空挺団が南相馬市に、第12旅団隷下の第2普通科連隊と中央即応連隊がいわき市、広野町と、南北から福島第一原発を取り囲むように、避難指示区域である20キロ圏ラインぎりぎりへと捜索の手を進めていく。

 

しかし、まだ住民も残っている屋内退避区域の捜索をするのは、火箱からすれば当然のこと。問題は警察が検問を張り、なんぴとたりとも立ち入り禁止にしている20キロ圏内へいつ手を伸ばせるかということだった。

 

それから数日後。遠く離れた宮城県石巻市で、ついに福島の郷土部隊(第44普通科連隊)を率いる森脇良尚連隊長に、福島帰還の命令が下った。

 

「福島の獅子たち」の新たな任務は、福島第一原発に最も近い10キロ圏内の双葉町と浪江町での行方不明者捜索活動。

 

「われわれを福島県の最も厳しいところに使ってください。」と上官に願い出た森脇たちは、その願い通り、宮城県で最も被害が甚大だった石巻市から、福島県の最も過酷な場所へと、再び転進することになった。

 

 

(次回につづく)

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