• 東日本大震災

陸自史上最大の作戦 東日本大震災

 前編から約2年半を経て、あの連載がついに再開した。

陸上自衛隊史上最大の作戦となった「東日本大震災」。メディアが刻一刻と報じる裏側で指揮官たちは何を思い、何を考えて行動していたのか?

地震発生直後、陸自トップ火箱芳文陸上幕僚長(当時)のとっさの機転により、全国の陸上自衛隊はいち早く被災地に向かい、その結果より多くの命が救われた。しかし…

 火箱陸幕長率いる14万の陸上自衛隊の眼前には、自然の猛威に蹂躙され荒廃した大地が果てしなく広がる。

いつ終わるとも知れぬ災害派遣活動の中で、部隊は次第に憔悴の色を深めていく。

地震と大津波による災害への対処と福島第一原発事故という「二正面作戦」を強いられた陸上自衛隊。

どこまでいっても勝つことはない「自然災害との戦い」の先に、彼らを待ち受けていたものは?

第55回 大鷲の憂愁 獅子の涙(23)

第12旅団長着任

 4月27日。塩崎敏譽(としよ)は市ヶ谷の防衛省で第12旅団長の辞令を受けると、すぐに群馬県榛東村(しんとうむら)にある本来の第12旅団司令部に向かった。

 

しかし当然ながら第12旅団主力はそこにはおらず、いまや遠く福島県に展開している。

 

塩崎は駐屯地内にある慰霊碑にお参りをし、地元メディアに対する旅団長着任の記者会見だけを早々に済ませると、輸送ヘリCH-47(チヌーク)に乗り込み、部隊主力の待つ福島県郡山駐屯地に飛んだ。

 

さらに翌日には、隷下の第13普通科連隊が行方不明者の捜索を行っている、30キロ圏内の北側、南相馬市にヘリで向かう。

 

津波によりぐちゃぐちゃになった「みちのく鹿島球場」へ着陸しようとするヘリからは、高度を下げるにつれ、次第に地上の惨状が眼前に広がる。

 

陸に打ち上げられた船、なぎ倒された高圧電線の鉄塔、津波によってがれきすらも流されている。

 

テレビでは連日のように被災地の光景が流されていたが、改めて自分の眼で見ると驚きの感情を抑えきれない。

 

第12旅団長の内示を受けた後、幾度となく火箱陸幕長からの電話があった。

 

 

「もうすぐ梅雨も来るし、暑くなってくるから、だいたい5月末をめどに行方不明者捜索を終えるような計画でやった方がいいんじゃないか?」

旅団長の焦燥感

 直属の上級司令部である東北方面総監部からは激励の電話一本ないのに、陸自トップからは毎日のように電話があることを塩崎は苦笑しつつも、現場の状況を見るにつけ、確かに火箱の言う通りだと思った。

 

 

「これは夏はちょっと無理だな。真夏になったら冷房車でも持ってきて1時間交代ぐらいで作業するしかなくなる…」

 

 

すさまじい惨状が地震発生から約2ヶ月近くも放置されている。

 

これから作業する隊員のことを考えると、塩崎は一刻でも早く20キロ圏内の捜索に着手しなければならないとの思いに駆られた。

 

第12旅団長の前任者である堀口が塩崎に残した引き継ぎファイルからは、政府・官邸、ひいては統幕やJTF東北(統合任務部隊)司令部の姿勢が変わらず、なかなか事態が前に進まないことに対する焦燥感がひしひしと伝わってきたが、今となっては塩崎もその気持ちがよく分かる。

 

生きている人がいれば救助し、道を開き、がれきを除去して行方不明者を捜索する。他の被災地での作業は大変だが、その行動原理は比較的単純だ。

 

しかし震災から2ヶ月近く経った今も福島第一原発事故が現在進行形で推移している福島県では、原発事故の状況だけでなく、政府・官邸、自治体などのさまざまな思惑や政治的判断が絡み合っている。

 

まさにそれこそが福島県における災害派遣活動の難しさだった。

使い捨てのタイベックスーツ

 5月1日。ついにギリギリのタイミングで第12旅団に20キロ圏内の行方不明者捜索に着手するよう命令が発せられた。

 

この時を待ちかねたかのように、第12旅団と、第12旅団隷下に配属された第1空挺団が福島第一原発を南北から挟むように20キロ圏内に一気に進出した。

 

各部隊は、北側は南相馬市原町区で、南側は楢葉町と広野町に広がる「Jビレッジ」で、白いタイベックスーツに着替えて20キロ圏内に入り、作業を終えるとまた同じ場所でスクリーニング・除染作業を行ってタイベックスーツを脱ぐ。

 

汚染地域では、たとえほんの少しの間でもタイベックスーツを脱ぐことはできない。

 

塩崎も南相馬市小高区に入るところで、初めてタイベックスーツを着用させられた。ふと見ると米国の「デュポン社」製。

 

タイベックスーツもマスクも数種類あり、「指揮官用」には、「声の通りがよいタイプのマスク」を渡される。

 

タイベックスーツもマスクもゴーグルもすべてが1回のみの「使い捨て」だ。

 

隊員が立ち入り規制区域に入るたびにこれらが消費され、それがやがては「低レベル放射性廃棄物」の山となる。

 

塩崎は、「もったいない」という気持ちと「大変なことだ」という気持ちがないまぜの、妙な気分になった。

 

広大な20キロ圏内

 第12旅団が司令部を置く郡山駐屯地から南相馬市までは90キロ強。20キロ圏内南部のJビレッジまでは110キロあまり。

 

塩崎は毎日、郡山駐屯地から現地に向かいミーティングを行なうとともに、部隊を激励し、さらに新たに捜索活動に取りかかからなければならない場所を偵察して回った。

 

その上、第12旅団に配属になった第1空挺団始め、第12旅団と並んで活動している部隊の指揮官との調整作業もある。

 

いくら走り回っても時間が足りなかった。捜索活動の前線が、次第に10キロ圏ラインに向けて内側に進むにつれ「現場」はさらに遠くなる。

 

ついに南相馬市鹿島区の福浦小学校に現地司令部を出して、現地からの報告はそこでの昼食時に聞くようにした。そのミーティングの様子はテレビ会議で郡山の司令部にも送られている。

 

郡山駐屯地には、関口泰一東部方面総監のはからいで、兵站支援する関東補給処の補給点が作られていた。

 

塩崎とのミーティングで報告される現地からのニーズはそのまま逐一、郡山の補給点に伝わり、必要な物資をすぐに手配してくれた。

 

火箱の求める「5月末までの作業完了」を実現するためには、できるだけ早く20キロ圏内の行方不明者捜索を終え、最も原発に近い10キロ圏内の捜索に着手しなければならない。

 

部隊はおおむね効率的に運用され、フル稼働している。さらに第12旅団以外の部隊も追加投入されているが、それでもほぼ手付かずのまま放置されてきた20キロ圏内の捜索地域は広大で、さまざまな悪条件が「大鷲たち」を、その地に足止めしていた。

 

 

(次回につづく)

 

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