• 歴史

東日本大震災が起きてから、日本の歴史が震災という新たな角度で注目されるようになった。

 

M8.0クラスの大震災
富士山の噴火
大飢饉を招いた気候の寒冷化
など

 

かつては「大げさ」の一言で片付けられがちだった古文書の内容が、現実を目の当たりにして笑い事では済まされなくなったからだ。


歴史の記録には、我々の祖先が体験してきた貴重な記憶が詰まっている。

当連載では、それをやさしく紐解くことで、災害の今昔を学んでいきたい。

第十七巻 伊達政宗は転んでもタダでは起きない

 今月22日、富士山が世界文化遺産に登録された。

 安倍首相も「クールジャパンの元祖」と手放しで称えるほどの喜びようであったが、実はその3日前の19日、ユネスコの世界記憶遺産に、伊達政宗ゆかりの資料も選ばれていたのをご存知だろうか。

 

『慶長遣欧使節関係資料』

 

 読んで字のごとく、江戸時代の慶長期に、欧州へ派遣された使節団の資料のこと。

 

 伊達政宗が当時のスペイン国王やローマ法王に送った親書や、またその返書が、世界的な財産であると認定されたのだ。

 

 

 伊達政宗はなぜ、遠く西洋まで使節団などを送ったのであろうか?

 

 そこには当時の東北地方を襲った大地震が密接に関係していた。

 

 

 

今日は潮の色が異常です 舟を出すのは難しいです

 今を遡ること約400年前、1611年10月28日のこと。

 午前10時頃、岩手県三陸沖を震源とするM8.0クラスの大地震が発生した。

 

 通称、慶長奥州地震津波と呼ばれるこの揺れは、地震が起きてから数時間後に津波を引き落し、仙台藩(宮城・岩手南部)や盛岡藩(岩手北部・青森東部)など、東北地方の太平洋側で約1万人が溺死した。

 

 その惨状は『駿府記』や『慶長日件録』にも記されているが、特に『駿府記』には、徳川家康のもとへ送られた伊達政宗の使者の話が掲載されており、津波の様子がハッキリと残されている。

 

『地震の起きた1611年10月28日、政宗は部下の侍2人に魚をとってこいと命じていた。

 命を受けた2人が海岸にたどり着き、漁師に船を出すよう命じると、午前中に地震が起きていたこともあり、彼らは言うのである。

 

「今日は潮の色が異常です。天気もおかしい。なので舟を出すのは難しいです」

 

 1人の侍は、これで沖に出るのを諦めた。が、もう1人の侍は、「殿の命令をやめるわけにはいかない」と、しぶる漁師数名の尻を叩き、無理やり船を出させた。

 

 船が数十町(数キロ)沖合にまで進んだときのことであろうか。突如、海面が天まで噴き上がるような高さになり、大波が押し寄せてきた。

 

 荒れ狂う海で船はギリギリ難破を免れ、どうにか海が落ち着いてきたところで、周囲を見渡す余裕が生まれた。

 

 と、気がつくと船は海上ではなく、内陸の千貫松に引っかかっていた。それは海岸から数キロという位置。高波にさらわれて運ばれていたのだ。

 

 侍や漁師たちが、慌てて村へ戻ると、辺り一帯は津波で跡形もなく、すでに全員は溺死か行方不明。助かったのは、ムリヤリ沖合に出た彼らだけだった』

 

 

 

常長を待っていた 残酷すぎる幕府の政策

 東日本大震災を経験していなかった頃ならば、我々も、この記述を与太話と誤解していたかもしれない。

 

 それほどまでに大きかった津波の威力。時代が江戸の初期であれば、復興までの道のりは恐ろしい労力になったであろう。

 

 しかしそこで決して凹まないのが伊達政宗。殺されても不思議ではなかった豊臣秀吉との初対面にわざと「死装束」で現れ、切腹どころか逆に気に入られたというエピソードが残されているように、彼には、どんな逆境もチャンスに変えるスペシャルポジティブな発想があった。

 

 そう、それこそが慶長遣欧使節団の派遣だったのである。彼は、スペインや西洋諸国と直接交易をすることによって、復興費用を稼ごうとしたのだ。

 

 

 これは当時の政情を考えると、かなり無謀な試みであった。

 

 というのも、戦争がほぼ落ち着いていた江戸初期の頃、徳川幕府は、伊達政宗のような外様大名のチカラを抑えるため、様々な経済的負担を課すようになっていた。

 

 各藩の地元と江戸を往復させた参勤交代などは、その代表であろう。常に出費をさせておけば、大名のカネもなくなり、武器も買えない。よって幕府へも反抗できない。

 

 そんな状況下であるのに、「外国と交易をして儲けたい!」なんて言語道断。ヘタをすればお家取り潰しにもなりかねない話である。

 

 

 が、震災にかこつけて押し通してしまうのが、政治家としても一流であった政宗である。

 

 彼は、徳川家康へ使者を送った際、「大きな津波に巻き込まれながら獲ったものです」と1匹の鱈(たら)も献上。震災被害の凄まじさを暗にアピールしたと考えられる。

 

 献上した鱈が津波のときのものかどうか。事実はもちろん不明である。が、家康にプレッシャーを与えたことだけは間違いないだろう。

 

 こうした画策が功を奏したのか。伊達政宗はついに使節派遣の許可を得る。そして、その代表として任命されたのが家臣の支倉常長(はせくら つねなが)だった。

 

 1613年、フランシスコ会修道士ソテーロらとともに、支倉常長は帆船サン・ファン・バウティスタ号に乗って太平洋を横断。翌年11月、メキシコ経由でスペインのマドリッドに到着した。

 その後は、スペイン国王やローマ法王にも拝謁し、ローマ市では公民権も贈られ、彼は貴族という破格の扱いも受けた。

 

 あいにくスペインとの通商交渉は締結に至らぬまま1620年に日本へ帰国したのだが、それは意外にも仙台藩にとって大きな救いとなった。

 

 実は、常長がメキシコへ旅立った翌年、江戸幕府はキリスト教の禁止令を発令しており、徐々に鎖国へと外交方針を変更していったのである。

 

 7年もかけて、地球の半分を行き来した常長の落胆はいかほどであっただろうか。

 彼は、当地でキリスト教に改宗したこともあって(もともと父親や本人がキリスト教徒だったとの説もある)、不遇のまま残りの人生を過ごし、帰国から2年後に死亡。

 交易によって財をなすという政宗の政策も、ついに日の目を見ることはなかった。

 

 

 

62万石から100万石へ! しかし、その飛躍が…

 慶長遣欧使節団には失敗した政宗。ただし、彼自身が地元で推し進めた、復興を目的とした新田開発では驚くべき成果をあげていた。

 

 江戸の初期、仙台藩は表向き62万石という面高(おもてだか)になっていた。が、地震後の再開発により、実質100万石にまで成長させたのである。

 

 政宗は、平和になって使い道のない部下(武士)たちを城下町に住ませるのではなく、彼らを代官として農地へ派遣し、新田開発の陣頭指揮を取らせた。

 

 また1623年には、長州(山口県)から招いた土木の専門家に、暴れ川の北上川で改修工事をさせて、仙台平野の北にある大崎平野や石巻平野を豊穣な水田に生まれ変わらせた。

 

 こうして得た「百万石」は見事なまでの復興成功例であろう。

 

 しかし皮肉にも、その再開発がうまくいきすぎたため、「津波堆積物の痕跡」がすっかり消えてしまい、同地方での津波に対する恐怖が薄れてしまったのも事実。

 

 東日本大震災の被災地では、「奇跡の一本松」の復元をはじめ、震災遺構の保存を巡って賛否が交錯している。

 政宗が成し遂げた「きれいすぎる復興」の歴史も教訓に、議論を進めた方がよいかもしれない。

 

 

 

著者紹介
文・恵美嘉樹(えみよしき)
作家。歴史研究の最前線の成果を社会に還元する二人組。
著書に『全国「一の宮」徹底ガイド』(PHP文庫)、『最新日本古代史の謎』(学研)など。

好きな伊達家武将は鬼庭綱元。


参考資料
蝦名裕一「1611年慶長奥州地震・津波を読み直す」 (1611年慶長地震津波400周年シンポジウム資料、2011年)
五野井隆史『支倉常長』(人物叢書、2003年)
武者金吉『復刻 日本地震史料 第一巻』(明石書店、2011年)

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