• 歴史

東日本大震災が起きてから、日本の歴史が震災という新たな角度で注目されるようになった。

 

M8.0クラスの大震災
富士山の噴火
大飢饉を招いた気候の寒冷化
など

 

かつては「大げさ」の一言で片付けられがちだった古文書の内容が、現実を目の当たりにして笑い事では済まされなくなったからだ。


歴史の記録には、我々の祖先が体験してきた貴重な記憶が詰まっている。

当連載では、それをやさしく紐解くことで、災害の今昔を学んでいきたい。

第十九巻 地震なんて知らんでおじゃる~そして貴族から武家社会へ

 平安時代というと、華やかな貴族が表舞台に立ち、十二単のお姫様が「おほほ」と和歌を詠むイメージがある。

 

 しかし、ノンビリとしたイメージとは違い、東北では千年に一度と称される「貞観地震」(第二巻に掲載)が869年に起きるなど、国土的には地震の活発期であった。平安中期の11世紀には、南海トラフ震源域で発生するM8クラスの東海・南海大地震も起きている。

 

 当然、公式の歴史書や有名貴族の日記などにこの地震の詳細が記されていてもよさそうだが、これが意外と少ない。
 理由として考えられるのは、中央政府の関心の低さだ。京都の平安京は、数々の大震災でもダメージが比較的軽微であったため、平安期が進むにつれ、地震への興味が薄れていった節があるのだ。

 

 貴族たちは、震災とは無縁だったからこそ、雅な文化を満喫できた。

 しかし、そのことが鎌倉以降の武士社会へと歴史を動かす、一つの要因にもなった。東海・南海大地震から、その移り変わりを見てみよう。

 

 

国が歴史書の編纂を放棄した!?

 11世紀の大地震とは、1096年の東海大地震と1099年の南海大地震のことだ。
 この大地震は、いわゆる南海トラフを震源としており、東西の断層があまりにも長いため、時期をずらして連動することも多く、当時も3年の間隔を置いている。

 

 そして、平安初期の貞観地震については、『日本三代実録』という公式の歴史書に詳細が記されているが、11世紀末の2つの大地震については、それがない。なぜか。

 

 国が歴史書の編纂をすでにやめていたからだ。

 

 かつて都の貴族たちは、地方の長官として現地へ赴任しており、何か起きればその報告が中央へ届けられた。
 それがこの頃になると、たとえば「薩摩守(さつまのかみ)」(鹿児島の県知事)などの役職名と給料だけをもらい、実務は現地採用の副知事らに任せきりだったのだ。

 

 都では、ちょうど「源氏物語」などの平安文化が盛んになっていた時期である。
 世界にも誇る国風文化は、高い教養を持った貴族たちが狭い地域で熟成させた結果であり、地方への関心は年を追う毎に薄まっていった。

 

 むろん貴族たちにも政治的事情はあった。この頃は仏教界が大きなチカラを持ち、僧侶たちが都に押しかけては、今で言う過激なデモを頻繁に繰り返していた。
 中央の役人(貴族)たちは、その対応だけでかなりの労力を割かれ、地方への関心は薄くなっても仕方がない。そんな状況だったのだ。

 

 では、地方の人々はどう暮らしていたのか? というと、当然ながら「自分たちでやるしかない」という独立精神が徐々に芽生え、地元の土地争いなどを巡っては、自然と武力闘争を繰り返すようになる。

 かくして武士たちは各地で自然発生していった(都でも、僧侶に対抗するため武闘派貴族が警備担当となった。彼らが後の源氏や平氏である)。

 

 

高知県では1000ヘクタールが地盤沈下で海底へ

 都と地方のギャップが広がりつつあったときに発生したのが、1096年(享保3年)11月24日と1099年(承徳3年)1月24日の大地震である。

 

 京都にある平安京も、揺れることは揺れたであろうが、被害自体はほとんどなかったと思われる。そのせいだろうか、このときの記録は、二人の貴族の日記、「後二条師通記」と「中右記」、そして別の時代の貴族の日記の裏に描かれた「勘仲記裏文書※1」の被災記録しかない。

 記述は極めて少ないが、ざっと見てみよう。

 

 まず「中右記」から。1096年12月、地震の翌月に次の記載が残されている。
「伊勢国の安濃津(三重県津市)では、大津波でたくさんの人々が被災し、ほかの地方でも同じようなことがおきた。有史以来、このような地震ははじめてだ」

 後二条の日記では、「駿河で400戸の寺社や住居が流された」と記載されている。

 

 一方、1099年の地震については、「勘仲記裏文書」に「土佐(高知県)で一千町(1000ヘクタール)が海の底になった」という記述がある。
 第二次大戦中に起きた南海地震でも、津波をうけた高知市の一部が地盤沈下を起こして水没していることからして、おそらくこの記載も事実であろう。

 

 しかし、肝心の人的被害については、両地震ともにほとんど記されていない。


 つまり、中央政府では「被害を認知してない」可能性が高く、支援物資や税免除などもなされなかったことも意味している。
 こうした体制により、地方で「自力救済」の考えが広まっていくのは自然の流れ。その象徴的な出来事だったかもしれない。

 

 ちなみに、1096年と1099年の東海・南海地震は、年号から「享保・承徳地震」と呼ばれる。しかし、wikipediaや一般書籍などでは、「永長・康和地震」と記されているものも散見される。

 

 これは地震発生後に中央政府が享保→永長、承徳→康和へと「改元」したため、認識のズレが生じたせいであろう。前回の浅間山噴火でも触れたが、地震などの災厄に見舞われた中央政府が、それを振り払うために年号をかえることは珍しいことではない。

 ただし、少々残念であるとすれば、このとき彼らは必ずしも「被災地のために」年号を変えたワケじゃないということだろう。少なからず京都も揺れたため、それを案じて改元したのである。

 

 

 南海トラフ震源域の地震で、最大規模の被害を受けるのは東海地方と考えられている。
 大地震から約100年後。駿河(静岡県)を中心とした太平洋側の東海武士たちが、源頼朝を擁立し、鎌倉幕府を設立したのは単なる偶然ではなかったように思えてしまう。

 

※1厳密には日記の裏に書いたのではなく、使用済みの公文書などを再利用して記された

 

著者紹介
文・恵美嘉樹(えみよしき)
作家。歴史研究の最前線の成果を社会に還元する二人組。
著書に『全国「一の宮」徹底ガイド』(PHP文庫)、『最新日本古代史の謎』(学研)など。

好きな日記は「土佐日記」。

 

参考文献
矢田俊文『中世の巨大地震』(吉川弘文館)
7月10日 15:34返信引用リンク未読
上横手雅敬・元木泰雄・勝山清次『日本の中世 8 院政と平氏、鎌倉政権 』(中央公論新社)
『日本歴史災害事典』(吉川弘文館)

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