• 歴史

東日本大震災が起きてから、日本の歴史が震災という新たな角度で注目されるようになった。

 

M8.0クラスの大震災
富士山の噴火
大飢饉を招いた気候の寒冷化
など

 

かつては「大げさ」の一言で片付けられがちだった古文書の内容が、現実を目の当たりにして笑い事では済まされなくなったからだ。


歴史の記録には、我々の祖先が体験してきた貴重な記憶が詰まっている。

当連載では、それをやさしく紐解くことで、災害の今昔を学んでいきたい。

第二十巻 天明の 生死を分けた 十五段

 火山の土石流から必死で逃げ、高台のお寺へ駆け込もうとした階段、わずか「15段差」が、とある村人たちの生死を分けた――。

 

 そんな劇的な物語が江戸時代に起きていた。場所は上野(こうずけ)。現代の群馬県である。

 

 上野といえば、当連載第十八巻「うどんは香川だけじゃない! 群馬の食文化を変えた浅間山」でも触れたとおり、平安時代に浅間山が大噴火を起こしているが、今回もこの火山を舞台にした話である。

 

 それから約700年後。再び火を噴いた浅間山は、いかなる恐怖をもたらしたのであろうか。

 

黒々とした噴煙が昼間を闇夜に変えた

 それは1783年4月3日のことだった。上野(群馬)と信濃(長野)の間にそびえる浅間山が突如、煙を噴き始めた。

 平安時代の浅間山も、最初に煙を出してから約40年間は大事に至らず、近隣の村人たちがすっかり油断したと思われるところで大きな噴火を起こしている。

 

 が、江戸時代の浅間山は、そこまで悠長ではなかった。

 

 最初の噴火から約3ヶ月後、7月に入ると、黒々とした噴煙を空一面に噴き上げ、昼間を闇夜に変えたのである。

 明らかな異変の兆候…。

 

 そして7月8日、浅間山はついに牙を向いた。大量の火山灰と共にマグマを吐き出し、それに押し出された土砂が猛烈な勢いで下流へと流れ始めたのである。

 そのスピードは、時速100キロとも推定されており、吾妻川や利根川さらには江戸川にまで流れこみ、山麓にある村々を押し流した。

 

 川が各地に運んだ「火石」(溶岩)は、小さいもので約90センチ。大きいものとなると9メートル以上もあり、しかも噴火から1か月を経過しても高温を保ち続けた。
 渋川市に残る「金島の浅間石」という巨石がこの「火石」の一つで、実に東西15メートル、南北10メートル、高さ4.4メートルものサイズである。吾妻川をつたい、浅間山からおよそ50キロも離れたこの地点にまで流れついたというのだから、土石流がいかに恐ろしいか、ご想像がつくだろう。東京都葛飾区の名主は、大噴火の翌9日、「江戸川には流れ着いた家財道具、損壊した人や牛馬の死骸であふれた」とも記しているほどだ。

 

 当然ながら、この噴火は農作物にも被害を及ぼした。
 たとえば、八ッ場ダムの建設予定地でもある群馬県長野原町の久々戸(ククド)遺跡では、発掘調査の結果、噴火の始まった4月頃から軽石などが畑の地表に降り始め、最終的に里イモなどを枯れさせたことが明らかになっている。

 

 そしてこのときは運悪く他の異常気象とも重なり、噴火の前後で約4年も続いた「天明の大飢饉」の一因ともなった。

 

 

8割近くの住民が命を落とした鎌原村

 数多の被害の中で、最も大きかったのが上野の鎌原村である。現在、高原野菜の産地として知られる嬬恋村の前身で、浅間山の火口から12キロ離れたこの地には当時597名の住民が暮らしていた。

 しかし、大噴火が引き起こした土砂のせいで、村の家屋93は全て流失。死者は466名を数え、8割近くの住民が亡くなったのである。

 

 この大災害の「爪痕」が、近年の調査で明らかになった。

 

 同村の高台にある鎌原観音堂の階段下方を発掘した結果、地中から新たな石段が掘り起こされ、その中から2人の遺骨が出土したのだ。

 

 現在の観音堂は、頂上まで15段の石段となっている。が、その下には35段が地中に眠っており、かつては50段だったことが判明した。つまり、浅間山から流されてきた大量の土砂が35段分、約6メートル以上もの高さで付近を埋め尽くしたのである。

 

 調査で発掘された2人の遺体は、重なり合う状態で見つかったことから、片方がもう片方を背負っていたと思われる。

 背負われていた方の推定年齢は45~65才で、身長は140~145センチ。背負っていた方は推定30~35才で、身長は134~139センチ。2人とも女性で、骨の状態から、激しい農作業に従事していた村人と推定されている。

 

 この2人は、親子であったのだろうか。はたまた途中で転んだ人を助けたのだろうか。今となってはその事実は不明だが、両者が階段を駆け上がる途中で土砂に飲まれたのは間違いない。

 

 鎌原村の生存者90名は、すべてこの高台へ逃れた人たちであった。

 

 

参拝者が途絶えることはないという

 土砂災害に見舞われ、壊滅的な被害を受けた鎌原村では、その後、生存者たち90名の中から10組20名もの男女が結婚したという。

 

 彼らによって作られた歌が、今でも地元では伝えられている。

 

天明の
生死を分けた
十五段

 

 噴火による被害を忘れないように。二度と悪夢が訪れないように。1783年の7月8日から、観音堂への参拝者が途絶えることはないという。

 

 

著者紹介
文・恵美嘉樹(えみよしき)
作家。歴史研究の最前線の成果を社会に還元する二人組。
著書に『全国「一の宮」徹底ガイド』(PHP文庫)、『最新日本古代史の謎』(学研)など。
好きな川は石狩川。

 

【参考文献】
関俊明『シリーズ遺跡を学ぶ075 浅間山大噴火の爪痕 天明三年浅間災害遺跡』(新泉社)

渡辺尚志『浅間山大噴火』(吉川弘文館)

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