• 歴史

東日本大震災が起きてから、日本の歴史が震災という新たな角度で注目されるようになった。

 

M8.0クラスの大震災
富士山の噴火
大飢饉を招いた気候の寒冷化
など

 

かつては「大げさ」の一言で片付けられがちだった古文書の内容が、現実を目の当たりにして笑い事では済まされなくなったからだ。


歴史の記録には、我々の祖先が体験してきた貴重な記憶が詰まっている。

当連載では、それをやさしく紐解くことで、災害の今昔を学んでいきたい。

第二十二巻 貞観地震からの復興~後編

 M9.0クラスの大きな揺れと津波で平安時代の東北を壊滅させた869年の貞観地震。


 このとき朝廷は、宮城県に設置した出先機関「多賀城」を中心に復興を進めたと前巻で記した

 

 その内容は、疫病予防のために被災者の遺体を埋葬したり、復興の象徴として多賀城を豪華に改修したり、はては被災地の税金も免除するなど、様々な対策を施していったが、今回は、復興にあたって盛り上がった当時の「国際化」について注目したい。

 

 そして、順調に進んでいた復興をすべて台無しにしてしまった、新たな天災の存在についても…。

東北蝦夷vs中央ヤマト 三十八年戦争が勃発する

 皆さんが歴史の授業で習った「蝦夷」というのは、実はまったく異なる2つの意味を指していることをご存知だろうか?

 

 1つは江戸時代に、北海道という土地そのものや、そこに先住民として住んでいたウタリ(アイヌ民族)を指す言葉で、この読みは「蝦夷(えぞ)」だ。

 そしてもう1つは、かつてはヤマト朝廷と同じ文化圏にあった東北の人々を指す言葉で、この場合の読み方は蝦夷(えみし)となる。

 

「蝦夷(えみし)」は、古墳時代まではヤマトと言わば「同じ仲間」だったが、気候の寒冷化やヤマト王権内の政争などで、交流が一時断絶。

 奈良時代になってヤマトが再び東北に進出したときには、なぜか一方的に「異民族」として彼らを差別し、蔑称として「蝦夷(えみし)」と呼ぶようになった。

 

 そしてその結果、ヤマトと蝦夷(えみし)の間で、「三十八年戦争」が起こった。

 

 三十八年戦争とは、その名の通り、奈良時代の774年から811年までの38年間、東北蝦夷と中央ヤマトが戦ったものだ。 

 

 最終的に勝利を手にしたのは朝廷側だが、戦争が終結するまでは、大軍のヤマトが合戦で敗北を喫したり、拠点の多賀城が攻められて炎上したり、蝦夷側の奮闘が目立った。

 そのため戦いは38年間も長引いた。これは日本国内で起きた合戦としては最長記録となっており、そんな泥沼の戦いを終えてから約50年後に貞観地震は起きるのである。

 震災の被害を知った朝廷は、このとき「蝦夷もヤマトも分け隔てなく救済するように」という命令を出した。戦争終結から50年。わざわざこんな命令を出すということは、両者の間にあった憎しみやわだかまりなどが、完全には払拭されてなかった証とも言える。

 

 そして朝廷は続けてもう一つの手を打つ。隣国からの復興支援隊を被災地に派遣したのだ。


 朝鮮半島の新羅人だった。

 

 

新羅からやってきた10名の瓦職人たち

 多賀城の復興にあたり、朝廷と蝦夷以外に、もう一つのチカラとなったのが、当時、朝鮮半島の南部に位置していた新羅からの渡来人であった。

 

 渡来人とは、日本よりも進んでいた技術を持つ中国や朝鮮半島の人々のことで、彼らは船で九州近辺に流れ着くケースが多かった。当時、日本と新羅は正式な国交を断絶していたため、民間レベルでの行き来のみが行われていたのである。

 実際、このときも瓦製作に長けた新羅人10名が九州から朝廷を経由して東北へ送られた。


 かくして新羅の職人たちは多賀城修復のために瓦を製造することになるが、これは当時の正式な歴史書である「日本三代実録」にも記録が残されている。


 そして、彼らが実際に活躍した証拠として、現在の多賀城発掘現場から新羅の「宝相華文(ほうそうげもん)」というデザインの瓦が発見されている。

 3.11東日本大震災の直後も、世界中の国々から復興のための支援が数多く送られてきたが、1000年前にも、ヤマト、蝦夷、新羅が三位一体となって復興に取り組んだのだ。

 地元の民衆にとっては、これ以上なく心強い様子であっただろう。


 しかし、である。天変地異の神様とは実に酷いコトをするものである。

 

 貞観地震から約50年後の915年、青森の十和田火山が大噴火※1。火山灰が東北中に降り注ぎ、広範囲にわたる田畑に大ダメージを与えた。

 

 貞観地震津波は、ある意味「局地的」な災害だった。しかし、十和田火山の噴火はそれどころではなかった。なんと東北一帯だけでなく、「京都にまで噴煙が届き、太陽がかすんで月のようになった」との記録が残っているほど。

 前巻で紹介した陸奥の国分寺(宮城県)でも、この火山灰の堆積は検出されている。十和田火山の噴火はさほどに凄まじく、朝廷も事実上、このときを契機に東北経営から撤収してしまうのだ。

 

※1 十和田湖は火山の噴火で形成されたカルデラ湖で、湖に浮かぶ御倉山という島(溶岩ドーム)は、この時の噴火でできたとの説が有力

 

そして奥州藤原氏が中尊寺金色堂を…

 十和田火山の噴火の後、朝廷が拠点としていた多賀城は急速に衰退した。残された地元民たちは一体どうなってしまったのか。

 

 実は、東北の歴史において、この噴火のあった10世紀は「空白の100年」と呼ばれている。中央からの関心が薄れ、記録すら残されなくなったせいだ。

 

 記録には残されていないが、おそらく一部の元朝廷役人や渡来人たちは東北に土着し、十和田火山噴火の後も地元住民たちと復興を進めていったであろう。

 

 火山噴火から100年後――。

 

 「前九年合戦」で安倍氏が、「後三年合戦」で清原氏が、そしてついには平泉の奥州藤原氏が表舞台に登場し、中央にも匹敵するチカラを身に付けた。この三氏は、姓名は異なっているが、母系を辿ると、みな縁戚関係であったことが近年、判明している。

 

 うち続く大災害にヤマト朝廷からも最後は見放された東北地方。しかしそんな逆境にあっても、「被災地復興」への努力をあきらめなかった蝦夷・ヤマト・渡来人の共同体の中から、こうした指導者層が次々に現れたのだろう。

 

 奥州藤原氏などは、歴史の教科書では「突然現れた武家」のごとく描かれているが、決して「突然現れた」わけではなく、粘り強く、人の絆を束ね、東北の地を支えてきた豪族の中から生まれてきた。

 

 そして、そのたゆまぬ努力の結果、東北の地は復興を遂げ、見捨てたヤマト政権が目を見張るほどの隆盛を極めていく。

 

 世界遺産にも登録されている平泉・中尊寺金色堂のまばゆいばかりの輝きは、奇跡的な復興を遂げた、奥州藤原氏を始めとする東北の人々の偉業を今に伝える金字塔とも言える。

 

 歴史は常に流れている。

 

 

文・恵美嘉樹(えみよしき)
作家。歴史研究の最前線の成果を社会に還元する二人組。

著書に『全国「一の宮」徹底ガイド』(PHP文庫)、『最新日本古代史の謎』(学研)など。

 

参考文献
岡本公樹『東北不屈の歴史をひもとく』(講談社)
柳澤和明「貞観11年陸奥国地震・津波」『日本歴史災害事典』(吉川弘文館)

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