• 歴史

東日本大震災が起きてから、日本の歴史が震災という新たな角度で注目されるようになった。

 

M8.0クラスの大震災
富士山の噴火
大飢饉を招いた気候の寒冷化
など

 

かつては「大げさ」の一言で片付けられがちだった古文書の内容が、現実を目の当たりにして笑い事では済まされなくなったからだ。


歴史の記録には、我々の祖先が体験してきた貴重な記憶が詰まっている。

当連載では、それをやさしく紐解くことで、災害の今昔を学んでいきたい。

第二十五巻 そして桜島は大隅半島とつながった

 8月18日、鹿児島県の桜島が噴火した。

 

 今年500回目になるという今回の噴火は平時よりかなり大きく、昭和火口から噴き出した噴煙は上空5000メートルにまで到達。その規模は2000年以来の大きさだったという。

 

 それでも鹿児島市民たちに慌てる様子はなかった。

 もともと桜島はいつも煙を上げており、鹿児島市内に火山灰を降らせている。されど爆発的な大噴火には至っていない。もし、何らかの予兆があれば気象庁から発表が出されるだろうから、市民たちもいたずらに狼狽する必要はないとの判断であろう。

 

 だからと言って、活火山を甘く見るのは危険である。

 

 今を遡ること99年前の1914年(大正3年)、桜島は現在の小康状態からは想像もつかないほど大きな大正噴火を起こした。

 

桜島が浮かぶ錦江湾でM7.1の大地震

 1914年1月12日、その大噴火が起きる前には、いくつかの前兆があった。

 

 まず噴火の数日前には、活発な火山特有の群発地震が発生していた。火口に近づこうとするマグマの動きによって周囲の大地が揺れる現象である。

 また、当日の朝も井戸の水位が上昇したり、温泉の湯が普段よりも流出するなどの異変が生じている。

 

 そして12日の午前10時、ついに桜島は噴火する。西山腹の火口から噴き出した噴煙は徐々に勢いを増し、上空1万メートル(このときの高さについては諸説あり)にまで到達。周囲に大量の軽石を降り注いだ。

 

 さらに追い打ちをかけるように、噴火当日の午後6時29分には、桜島が浮かんでいる錦江湾内を震源としたM7.1の大地震が発生し、家屋倒壊などで死傷者を出すのである。

 

 桜島が「浮かんでいる」と聞いて、「おや?」と不思議に思われた方もいるかもしれない。

 

 現在の地図を見ると、桜島は大隅半島からちょこっと飛び出したような陸続きになっており、島のカタチをしていても完全な島ではない。
 しかし大正当時の桜島は、その名の通り海に浮かぶ「島」であり、現在のように大隅半島とは地続きではなかった。

 

 では、いつから桜島と半島はつながったのか?

 

 勘の良い方なら、すでにお気づきだろう。「いつ」とはまさにこのときの大正噴火からで、13日の深夜午前0時頃、噴火活動のピークを迎えた桜島から大量の火砕流と溶岩が溢れ出て、近隣の集落を飲み込みながら、海へと流れていったのである。

 

 そして桜島は大隅半島とつながった。

 

真冬の海へ飛び込む人も

 噴火直後、島側に取り残された人々の救助作業には長い時間を要した。

 

 桜島から鹿児島市内までは、当時の船で4~5時間。避難民たちを一度に船内へ載せることはできず、ピストン輸送でまかなうしかなかった。
 そのため、港では救助船を待つ人々で溢れ、鹿児島市内への瀬戸海峡を泳いで渡ろうと真冬の海へ飛び込み、凍死した者も30人ほどいたという。

 

 そして、いざ鹿児島市内へ逃げおおせた人々には、別の恐怖が待っていた。

 

「津波が来るので、鹿児島もあぶない」
「噴火により毒ガスが発生する」

 

 風評によってパニック状態となった人々は逃げ惑い、市内からは人影が消えていたという。

 

 夜が明けると、辺り一帯には想像以上の被害が広がっていた。

 桜島にあった約3400戸のうち6割が被災。先ほど述べたように集落が溶岩に呑まれたり、降り注ぐ火山灰などによって家屋が焼失した。

 

 鹿児島市内に降り積もった火山灰は30センチ前後の高さにおよび、畑は壊滅。牛馬は焼死したり、あるいはその後、人間に世話を見てもらえずに衰弱死という運命をたどった。

 

 さらに大隅半島の一部では軽石が1メートルも積もった地域もあるなど、この噴火によって従来の土地では生活を続けられず、新たな場所へ移住を余儀なくされた人は2万人に及ぶ。

 

 死傷者は全体で約140名。噴火が完全におさまったのは、実に5カ月後の6月だった。

 

言い伝えはときに科学を凌駕する

 それにしても一つの疑問が湧いてくる。


 大噴火が起きる前に、なぜ人々は事前の避難や防災・減災の準備を進めなかったのか。当時、鹿児島には桜島を監視する「測候所」があり、事前に十分な注意が払われていたハズ。

 

 しかし、他ならぬこの測候所が「大きな噴火は起きない」とのミスジャッジを下してしまったのだ。

 当時の観測技術では、測候所もなかなか「大噴火が来る」とは断言できなかったのかもしれない。万が一、何もなかったら「人心を混乱させた」と非難を浴びせられるであろう。


 現在、島内の東桜島小学校には、このときの被災を教訓とした石碑「桜島爆発記念碑」が、建てられている。
 石碑に刻まれた記録の一部を抜粋しよう。

 

「大正3年1月12日、桜島の爆発は安永8年以来の大惨禍で、全島が猛火に包まれ、火石が落下し降灰が天地を覆い、その光景は惨憺を極め、8つの部落を絶滅させ140人の死傷者を出した。
(略)
本島が爆発することは、古来の歴史に照らしてみても、将来的にかならず再発する。住民は理論を信頼してはならない。
(略)
ここに碑を建てて記念とする。
大正十三年一月 東桜島村」


「住民は理論を信頼してはならない」とは、なんと苦渋に満ちた言葉であろう。

 

 当時の住民の中には、測候所の判断を信用せず、自ら避難を敢行した人々もいた。彼らは1779年の江戸時代に起きた安永噴火の言い伝えを信じて逃げたそうだ。

 その言い伝えとは、大きな噴火の前には群発地震が起きたり、井戸水の水位が変化するなどであり、まさに大正噴火の直前の状況とピッタリ。安永噴火で同じような体験をした先祖から聞かされていた住民たちが危険を感じとり、事前に避難したのである。

 

 言い伝えは、ときに科学を凌駕する

 

 大正時代よりも格段にテクノロジーが発達した世界に住む我々も、柔軟に対応していきたい。

 

 

文・恵美嘉樹(えみよしき)
作家。歴史研究の最前線の成果を社会に還元する二人組。
著書に『全国「一の宮」徹底ガイド』(PHP文庫)、『最新日本古代史の謎』(学研)など。

 

【参考文献】
『日本歴史災害事典』吉川弘文館
『日本歴史地名大系』平凡社

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