• 歴史

東日本大震災が起きてから、日本の歴史が震災という新たな角度で注目されるようになった。

 

M8.0クラスの大震災
富士山の噴火
大飢饉を招いた気候の寒冷化
など

 

かつては「大げさ」の一言で片付けられがちだった古文書の内容が、現実を目の当たりにして笑い事では済まされなくなったからだ。


歴史の記録には、我々の祖先が体験してきた貴重な記憶が詰まっている。

当連載では、それをやさしく紐解くことで、災害の今昔を学んでいきたい。

第二十六巻 鎌倉の大仏殿も流した明応地震の大津波

  源頼朝が幕府を開いた古都・鎌倉には、現在も数多の歴史遺産が残されている。その中で大人にも子供にも、最も親しまれているのは、やはり大仏様であろう。

 

 台座を含めて高さは約13メートル。重さは121トン。奈良の大仏様(約18メートル)と比べても遜色のない存在感であるが、両者には一つ大きな違いがある。

 

 なぜ、鎌倉の大仏様は青空の下に鎮座しているのか?

 

 偉い仏様なのだから、常識で考えれば建物の中で大切に保管され、雨風から守られてしかるべきである。


 この大仏様、正式名称は銅造阿弥陀如来坐像(どうぞうあみだにょらいざぞう)と言い、高徳院というお寺の本尊である。

 

 もともとは1238年、時の権力者は執権・北条泰時の時代に作られたのだが、当時は立派な「大仏殿」が建っていた。

津波が大仏殿を打ち破る 溺死者200人余り

 それは戦国時代のことだった。

 

 1498年8月25日、東海沖でM8.2~8.4の明応地震(南海トラフ大地震)が発生。
 この巨大地震によって発生した津波が、当時、淡水湖だった浜名湖に襲いかかり、それ以来、海水と淡水が混ざり合う汽水湖となったことは前々回の当連載でお伝えしたが、その被害は東海地方にはとどまらなかった。

 

 津波は相模湾にまで達し、鎌倉の巨大な大仏殿をも流してしまったのである。

 

 大仏のことを記した古文書『鎌倉大日記』には次のように記されている。

 

【大地震の津波が大仏殿を打ち破る。溺死者200人余り】※1


 冒頭で触れたが、明応地震の正体は南海トラフ大地震である。

 この大地震が起きれば九州から関東地方まで、幅広く被害が及ぶことは現代でも大いに懸念されており、神奈川県ではその予防知識として、明応地震を想定した浸水予測マップを作成している※2。

 

 もし、同規模の津波が発生すれば、その高さは鎌倉で8~10メートル。
 詳細は同県のホームページに載っているが、鎌倉の中心地は多くが浸水してしまうという驚くべきデータが出ている。木造の大仏殿が流されてしまうのも無理はないだろう。

 

 ちなみに、地震発生から津波到達までの猶予は58分と予測されている。

 

※1 『鎌倉大日記』には津波の到来が1495年と記されているが、最近の研究によってこの記述が1498年の明応地震の津波によるものだと判明した

 

※2 神奈川県 津波浸水予測図 

 

和歌山県の紀ノ川河口で大規模な塩害

 明応地震の震源地から見て、正面に位置する浜名湖(静岡県)。
 東に位置する鎌倉の大仏様(神奈川県)。
 では、西方では何も被害は起きなかったのか?

 

 当然ながら、そんなことはなく、西日本も津波に襲われた。その中で最も被害を受けた一つが、紀州(和歌山県)の紀ノ川河口域である。

 

 和歌山県を東から西へ流れ、現在、大阪湾の入口に流れ込む紀ノ川は、昔は海岸へと一直線では流れ込まず、河口付近でいったん南へ曲がってから海に注ぎ込んでいた。

 

 明応地震の巨大津波が、その姿を一変させた。

 それまで海岸付近に広がっていた砂丘を削り、海からの塩害を守っていた地形を崩壊。内陸部の後背湿地(水田を耕しやすい淡水の湿地帯)まで塩まみれにさせ、付近の田んぼは一様に不作となってしまった。

 

 実は、この一件は後の歴史に大きな影響を与えたと考えられる。かの織田信長の天下統一を大幅に遅らせたのだ。

 

 なぜ、地震による津波被害を受けた土地が、そのような影響力を持つに至ったか? そのヒントは宣教師ルイス・フロイスが残した言葉に隠されている。

 

「雑賀の地は非常に豊かだった」

 

戦国最強の鉄砲軍団・雑賀衆はこうして生まれた

 ルイス・フロイスが注目した「雑賀の地」とは、紀ノ川の河口付近にあった集落・雑賀荘のことである。まさに明応地震の津波によって最も塩害を受けた地域の一つであり、それ以降、稲作による収穫は見込み薄となっていた※3。

 そこで彼らは、和歌山の山中に生い茂る森林資源に着目。山から得られる材木を基に造船業を営み、また自らそれに乗って海運業にも乗り出した。そう、ルイス・フロイスが豊かと記述したのは、農業地域としてではなく海運基地としての繁栄であったのである。

 

 また、雑賀の人々は海運業だけでなく傭兵業にも勤しんでおり、そんな彼らが船で諸国を行き交ううちに出会ったのが、当時の最新武器である鉄砲だった。

 その存在価値にいち早く気付いた雑賀の人々は、自らの軍隊に取り入れ、屈強な鉄砲隊を作り上げた。まだ10代前半の少年たちにも訓練させるほどの徹底ぶりで、最盛期には数千丁を取り扱う、傭兵軍団となっていた。

 

 そして、彼らの名声を大いに知らしめる機会がついにやってくる。1570年、雑賀荘の北に位置する大坂の石山本願寺が織田信長と戦争を始めたのだ。

 

 石山本願寺とは一向宗(浄土真宗)の総本山であり、各地の信徒が大坂にやってきて信長と戦ったのだが、その際、織田軍に大打撃を与えたのが雑賀の人々による鉄砲隊、通称・雑賀衆であった。

 鉄砲の名手である彼らは、織田信長の脚を撃ったという逸話が残るほどの武名を挙げており、織田軍は1570年から実に10年間、両者が和睦するまで戦い続けることになったのだ。

 

 信長が近畿より西へ軍を進めるには、どうしても大坂の地は治めねばならず、そのために費やした10年間はあまりにも大きい。

 

 

 もし明応地震が起きていなかったら?

 

 当然ながら津波も発生せず、雑賀の土地も被災することはなく、海運業が発展する可能性は潰えたかもしれない。となれば雑賀衆の鉄砲隊が組まれることもなく、大坂で織田信長の天下統一を邪魔する者はいなくなる。が、しかし…。

 

 石山本願寺との戦争終結から2年後の1582年。京都で本能寺の変が起き、無残にも織田信長は配下の明智光秀に討たれた。

 

 後世の我々に残された事実は、まるで映画のように儚い戦国大名の終焉である。

 


※3 江戸時代に編纂された『紀伊続風土記』にも、雑賀の地は「地質がよくなく、水害が多く、穀物の出来が悪い」と記述されていた

 

文・恵美嘉樹(えみよしき)
作家。歴史研究の最前線の成果を社会に還元する二人組。
著書に『全国「一の宮」徹底ガイド』(PHP文庫)、『最新日本古代史の謎』(学研)など。

 

【参考文献】

『戦国鉄砲・傭兵隊』(著・鈴木眞哉/平凡社新書)

矢田俊文『中世の巨大地震』(歴史文化ライブラリー)

日本歴史災害事典(吉川弘文館)

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