• 歴史

東日本大震災が起きてから、日本の歴史が震災という新たな角度で注目されるようになった。

 

M8.0クラスの大震災
富士山の噴火
大飢饉を招いた気候の寒冷化
など

 

かつては「大げさ」の一言で片付けられがちだった古文書の内容が、現実を目の当たりにして笑い事では済まされなくなったからだ。


歴史の記録には、我々の祖先が体験してきた貴重な記憶が詰まっている。

当連載では、それをやさしく紐解くことで、災害の今昔を学んでいきたい。

第二十七巻 江戸時代の人気観光地が地獄絵図と化す

 江戸時代は、旅行が盛んな時代だった。
 戦国の乱世が終わり、全国津々浦々に街道が整えられ、庶民でも旅ができる時代になったのである。

 

 特に三重県への伊勢参りは、当時の人々が「生涯に一度は行ってみたい」と評する程の人気スポットであり、現在でも伊勢神宮への参拝者が引きも切らないのは、その名残であろう。

 

 そんな伊勢神宮と人気を二分していたのが信州の善光寺だ。

 

 こちらは長野県長野市にあり、現代でも蕎麦や饅頭などは有名だが、何と言っても最大の名物は7年に一度のご開帳である。
 秘仏「前立本尊」様が公開されるのだ。

 

 この滅多に拝めない仏様に祈りを捧げようと、全国から訪れる参拝者たちは、江戸時代にして一日数千人に達していた。
 数十日間に及ぶ公開期間中に、約20万人もの人々が足を運んだというのだから、当時の一大レジャータウンだったことがご理解いただけよう。

 

 そんな江戸時代の人気スポットが、突如、阿鼻叫喚の地獄絵図と化したのは1847年のことだ。

 

7年に1度のお祭り時期にM7.4の巨大地震が

 1847年5月8日。
 その日、7年ぶりのご開帳を開催している善光寺には、日本中から約8000人の観光客が訪れていた。

 

 山門前には、芝居小屋やお土産屋、お菓子屋などが軒を連ね、近隣の宿は観光客で溢れた。
 江戸を出発して伊勢参りを終えた者の中には、帰り道に信州ルートを使って善光寺を参拝する者も少なくなく、その日も大勢の江戸っ子たちがご開帳に集まっていたであろう。

 

 そんな楽しい旅が一瞬にして悪夢となったのは夜10時ごろのこと。
 突如、M7.4の大地震が信州を襲ったのである。

 

 地震に襲われた善光寺と門前町の店舗や家屋は、多くが揺れで倒され、その後の出火による大火事で街が焦土と化した。

 

 その様子を信州埴科郡(現在の長野県千曲市)に住んでいた75才の百姓・中条唯七郎が詳細に記録していた。
 彼の日記を追ってみよう。

 

『3月24日(日付は旧暦で地震当日)
 夜に入って4つ大地震があった。(略)
 地震は翌日まで昼夜間断なく続き、まるで船に乗っているような心地であった。(略)
 皆、家の中にいることが出来なくて、庭に出て終夜そのまま外にいた。地震の揺れで家が潰れ、炉の中から火が出て、たちまち火事となり、あちこちで大火事になった』

 

 地震発生の当日は「船に乗っている」ように家が揺れ、あちこちで火事が発生し、中条本人も庭で過ごした様子が語られている。
 日記を続けよう。

 

『3月25日(翌日)
 顔を合わせる人々は、本当に狂気顔で、正気の人は少ない。

3月26・27日
(略)稲荷山には1000人ほどの宿泊者がいた。千曲川の対岸にある矢代にも400人ほどいたというが、みな善光寺開帳参りのためである。(略)
 そのうち4~50人は連れ出たようだが、そのほかは皆、亡くなったらしい。

3月28日
〔地震当日〕つぶれた家の下敷きになって出ることができず、大声をあげて「助けてくれー、助けてくれー」と叫んでも、聞いた方も、それを聞き捨てにして、みなその場を逃げるほかなかった。たとえ可哀想だと思っても、それが数十か所、数百か所もあっては力に及ばず。(略)
 そうこうするうち、火が及んできて、残念ながら倒れた家の下で焼死したものが多かった』

 

 地震の翌日以降、中条老人は自らの目で見たり、うまく逃げ出せた人たちによって被災地の情報を聞いたのだろう。少しずつ地震の惨状が明らかになっていくのが日記から見てとれる。

 

 不運なことに、善光寺を訪れていた旅人の多くは土地勘がなく、地震も夜10時頃に起きたため辺りが暗く、火事などからうまく避難経路を見つけることができず、被害は拡大するばかりだった。

 

 これは後に判明した話であるが、地震によって2万戸以上の家屋が全壊あるいは火事によって消失。
 また、善光寺の観光客8000人のうち9割が死亡したとも言われており、数日たつと、寺の境内は死体であふれ、それを野犬が貪り食うなど、凄まじい惨状となったという。

 

 まさに地獄絵図だった。

 

善光寺の惨状は瓦版にして江戸へ伝えられた

 日記には続きがあり、二次災害の様子も詳細に記されていた。
 大きな被害となったのが、約6万か所で発生したという山崩れや地すべりで、とりわけ虚空蔵(こくうぞう)山の山崩れが引き起こした水害は、多大な被害をもたらした。

 

『4月14日
[虚空蔵山で]籠もっていた犀川(さいがわ)の水が、川中島に押し出してきた。雷電のような音が大地に響き、聞くもおののくばかりであった』

 

 地震直後に起きた虚空蔵山の山崩れで土砂が川をせき止め、長さ30キロメートル以上の急増の湖ができた。が、それをせき止めていた土砂が決壊し、溢れだした泥水によって、下流域が水浸しになったのだ。


 それも場所によっては高さ20メートルを超える津波のような洪水で、決壊から24時間後には隣国の越後(新潟県)を通って日本海に達するほどの水流となったのである。
 この地域から日本海までは、直線距離にして40km以上はあろうかという距離だから、想像を絶する水量が流れ出たのであろう。


 こうした被害に直面し、復興の矢面に立たされたのが地元の松代藩である。

 

 有名な戦国武将・真田幸村の兄が初代藩主となった信州の名門一家で、当時の藩主である真田幸貫は、まず幕府から1万両を無利息で借金(拝借金という)。

 洪水で壊れた千曲川の堤防を修復するため、現地の被災農民を現場に駆り出し、拝借金の中から賃金を支払った。地震や洪水によって田畑を奪われた農民たちを救済すると同時に、治水事業を推し進めたのである。

 

 また、善光寺の復興も同時に推し進めたが、こちらの再建はことのほか早く進んだ。
 いくら地震に見舞われたとはいえ、善光寺は今後も全国からの集客が見込めるドル箱である。カネを貸してくれる人は後を絶たなかったのだ。周辺の宿や店舗も急速に活況を取り戻していったという。

 

 なお、松代藩では被災状況を描いた絵図を作り、幕府や他の大名にも公開している。これは、先の「拝借金を借りるための外交アピール」とか、「今後の防災・減災に役立てるための純粋な情報提供」などの見方があるが、現時点での研究では確たる答えは出ていない。

 

 ただ、善光寺についての被災状況を記した瓦版が江戸で出版されるなど、かなり開かれた情報開示が行われたことは間違いなく、ここまで積極的に細かな災害記録が残されたのは、日本史上初のことである。

 


 巨大地震の余震は、その後7年間続いた。


 地震の様子を日記に記したときに75才だった中条老人は、余震の様子を「どーん、どーん」と震えながら書き留めていたそうだが、地震発生から9カ月後には筆を置き、その後間もなく77才にして息を引き取った。
 江戸時代は、元禄文化や化政文化など、独自の日本文化が花開いた時代であるが、こうした市井の地味な記録も、それらに負けず劣らず貴重なノンフィクション作品であろう。

 

文・恵美嘉樹(えみよしき)
作家。歴史研究の最前線の成果を社会に還元する二人組。
著書に『全国「一の宮」徹底ガイド』(PHP文庫)、『最新日本古代史の謎』(学研)など。

 

【参考文献】
北原糸子ほか『日本歴史災害事典』(吉川弘文館)
中条唯七郎『善光寺大地震を生き抜く』(日本経済評論社)
赤羽貞幸ほか『善光寺地震に学ぶ』(信濃毎日新聞社)
渡辺尚志『日本人は災害からどう復興したのか』(農文協)

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