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陸自史上最大の作戦 東日本大震災

陸上自衛隊 現在の実員数 約14万人。
創設から58年の歴史の中で史上最大の作戦は、言うまでもなく「東日本大震災への災害派遣」だ。
のべ派遣人員1066万人、派遣期間291日間、犠牲になった隊員は5名。
福島第一原発上空で放水する陸上自衛隊のヘリコプターのテレビ映像に釘付けになった人も多いだろう。
メディアで刻一刻と状況が報じられる裏側で、陸上自衛隊に何が起き、どのように作戦を遂行していったのか?
当時の陸上自衛隊トップ 火箱芳文前陸上幕僚長が2年近く経った今、「史上最大の作戦」の真実を語り始めた。

第3回 災害派遣命令 発令

混迷する陸幕指揮所

 市ヶ谷 防衛省の地下3階、有事の際には陸上自衛隊の最高司令部となる陸幕指揮所は、課長クラスの幕僚たちが慌ただしく出入りし、すでに騒然とした雰囲気に包まれていた。

 

火箱の想像通り、陸上幕僚監部の高田運用支援課長(当時)などの幕僚たちは、どの部隊を残置し、どの部隊を派遣するかで議論・調整を続けている。

 

「もうすでに、全方面総監に残置部隊、派遣部隊の指示はした。

後は、全部隊の状況と被災地の状況についてきちんと情報を掌握するように!

統合幕僚監部にも伝えておけ!

オレはこれから省の対策本部会議に出てくるから。」

 

 火箱は、それだけ言い残すと、地下3階から防衛省14階まで、階段を駆け上がって行った。

15時30分 第1回防衛省対策本部会議

 15時30分。第1回防衛省対策本部会議。

 

 総理官邸から戻ってきた北澤俊美防衛大臣(当時)は、会議の冒頭、菅総理(当時)からの指示を伝えた。

 

「自衛隊は、最大限の対応をするように。」

 

 これに対し、火箱は現状を報告した。

 

「陸上自衛隊は、自分が必要な指示を行ない、すでに全国の部隊が動いております。」

 

「……」

 

 北澤大臣は、この報告にただ無言だった。

 

「2万人ぐらいはだせるかなあ…」

 

「大臣。何万人だせるか?と言う事より、どの部隊を残し、どの部隊を派遣すべきか?をきちんと腑分けして考えるべきかと…」

 

「そりゃ、そうだなあ…」

 

総理大臣からの指示を伝え、各自衛隊が現状報告することで、第1回目の省対策本部会議は終わった。

松島基地 多賀城駐屯地 壊滅

 火箱の発令により、全国の陸上自衛隊が移動準備を進める中、市ヶ谷の陸上幕僚監部では、災害の状況、並びに部隊の現状掌握のために情報収集を進めていた。

そして17時30分に、2回目の防衛省対策本部会議が開かれ、席上、衝撃的な報告がなされる。

 

 岩崎茂航空幕僚長(現 統合幕僚長)が沈痛な表情で、航空自衛隊 松島基地が津波に襲われ、全航空機が流失したと報告。

 

 さらに会議終了後、現地から陸自多賀城駐屯地が津波により水没、災害派遣のために準備していた車両が流されたとの報告が入る。

 

次第に情報が集まり、状況が明らかになるにつれて、防衛省は沈痛な雰囲気に包まれていった。

 

 しかし一方で、福島第一原発については、16時50分ごろに官邸から、

 

「冷却用ディーゼルエンジン停止。ただし緊急の危険はない。」

 

との情報を受けている。

この情報により、防衛省幹部は、少なくともこの時点では「原発災害は、さほど深刻なものではない」と認識し、安堵していた。

 

民間フェリーを調達せよ

 防衛省が情報収集に混迷を極める一方で、陸上幕僚監部は派遣を命じた部隊の状況掌握と支援に必死だった。

 

 北海道の中央部、旭川に師団司令部を置く第2師団は、最終的な目的地すらようとして定まらぬままに、北海道を南北に貫く国道をひたすらに南下して、北海道南部の港湾に暫時、集結を開始していた。

 

ご存知の通り、青函トンネルには自動車道がない。鉄道専用トンネルだ。

 

一気に大量の人員と重機などの装備を北海道から本州に輸送するためには、北海道南部での『海上輸送力の確保』が不可欠となる。

 

 火箱は、まず杉本正彦海上幕僚長(当時)に、海上自衛隊艦船での東北への第2師団輸送を打診した。

しかし、杉本海幕長の回答は、

 

「現在、艦船がドック入りしているので最低でも2日かかります。」

 

と言うものだった。

 

「民間フェリー会社に連絡して臨時航路を契約しろ!」

 

火箱は陸上幕僚監部に命じた。

 

チャーター便は、何時に出港できるのか?

集結地は日本海側の小樽なのか?太平洋側の苫小牧なのか?

そして、津波の被害を受けている東北太平洋側に接岸できる港はあるのか?

 ちなみに、火箱の第2師団への指示は、

 

「海上機動力は陸上幕僚監部で責任をもって確保するから、北海道のどの港でもよいから、待機せよ」

 

で、ある。

 

 状況が錯綜する中、最終的に第2師団は第一陣として第26普通科連隊(留萌)が小樽から新日本海フェリーで秋田港へ。

第二陣は第3普通科連隊(名寄)が苫小牧から太平洋フェリーのチャーター便で青森港へ輸送され、陸路を経由して被災地に展開することになる。

 

18時00分 防衛省正式命令 発令

 2011年3月11日の日没は17時44分。

日もとっぷり暮れた18時00分、遂に防衛省として正式の命令が発令された。

 

「大規模震災による災害派遣命令」

 

 内容は、火箱が派遣を命じた部隊に加え、地震発生当初、北海道への大きな津波の来襲や南海トラフ地震の連動を懸念して残置した第13旅団(広島)、第14旅団(香川)、第5旅団(帯広)も、懸念が払拭されたとして、加えて派遣することを追記しているものだった。

 

 この正式命令が発令される頃には、第12旅団のヘリ空中機動部隊は群馬県相馬原からすでに被災地に向けて飛び立っており、河村仁師団長みずからが率いる名古屋の第10師団先遣隊も、陸路をその日のうちに被災地に到着した。

火箱が役所的な手続きに忠実な指揮官で、正式命令を待ってからの出動だったとしたら、現地の東北方面隊以外、発生当日に被災地に到着できた部隊はなかっただろう。

 

 火箱の『独断専行?』により、正式命令より2時間30分あまり早く全陸上自衛隊は動き、それは結果として『1日』と言う初動における貴重な時間を節約する事につながっていった。

 

陸上自衛隊トップが『規則違反』と批判されるリスクを犯してまでこだわった『生存可能性は72時間』と言う鉄則。

 

 防衛省は、3日後の3月14日午後5時に、「地震発生から72時間以内に自衛隊が救出した人命数」を発表する。

 

その数は『15,900人』だった。

 

               (次回につづく)

 

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