• 歴史

東日本大震災が起きてから、日本の歴史が震災という新たな角度で注目されるようになった。

 

M8.0クラスの大震災
富士山の噴火
大飢饉を招いた気候の寒冷化
など

 

かつては「大げさ」の一言で片付けられがちだった古文書の内容が、現実を目の当たりにして笑い事では済まされなくなったからだ。


歴史の記録には、我々の祖先が体験してきた貴重な記憶が詰まっている。

当連載では、それをやさしく紐解くことで、災害の今昔を学んでいきたい。

第一巻 奇跡の一本松は何を背負う

 2013年3月22日、岩手県陸前高田市の「奇跡の一本松」が再び立ち上がった。


 皆さんご存知かもしれないが、現在の一本松は、呼吸をしてないモニュメント。枯れ死した幹や枝を解体し、保存処理をかけた上で元の高田松原へ戻すのには総額1億5000万円もの費用がかかった。これには「他の復興事業に回すべきではないか」との反対意見も噴出した。


 しかし、である。一本松は、金額では決してはかれない、大切な歴史を背負っている。批判は、それを知ってからでも遅くはないだろう。

 

 

 

集落を飛砂から守るために植林された

 一本松の立っている高田松原は、弓状に延びる1.8キロの砂浜で、その上にクロマツなどが所狭しと並んでいた。

 国指定の名勝。そんな風に語ると、あたかも古くから絶景が広がっていたかのように思われるかもしれないが、実はここ、江戸時代に植栽された人工林である。


 高田松原は、江戸前期の1666年(寛文6)に植栽事業を開始。仙台藩の協力を受けた高田村の菅野杢之助(かんの もくのすけ)が主導して、翌年に6198本の松を植えたことが、『願書』浄土寺文書という古文書に記録されている。

 高田村に限らず、江戸時代には、全国各地で松の植林が行われたが、一番の理由は飛砂から集落を守ることだった。この時代には「エコ」や「豊かな里山」といったイメージがあるが、それは大間違い。山は禿げ、土砂が海にまで流れて砂丘ができ、飛砂により家が埋まるなどの被害が続出した。


 というのも、安土桃山から江戸時代初期にかけて、国内は都市整備などのインフラ建設に湧き大量の木材が消費され、さらには平和化で薪の需要も増え、日本史上最大の環境破壊が進んだのだ。そこで、砂丘に松林を植えることで飛砂の被害を抑えようとしたのである。

 

 

 

造林事業が遅れたのは大坂冬の陣・夏の陣のせい!?

 高田松原については飛砂だけでなく、津波を防ごうとした可能性も高い。


 東日本大震災は1000年に一度の規模と言われているが、実は東北では400年前の1611年(慶長16年)にも同じクラスの地震津波が起きている。高田松原の造林が始まったのは、その50年後のことだ。


 津波から事業の着手まで実に半世紀。その間、一体何してたんだ? もしかしたら、そう思われるかもしれない。
 この時は地震直後に、大坂冬の陣、夏の陣(1614、15年)という徳川と豊臣の最終決戦があり、高田村を支配する伊達政宗も大坂へ出兵。「将来の防災」が先送りにされたことは想像に難くない。


 かくして世情が落ち着き、ようやく始まった植林事業の初年度成果は約6000本。それから長い年月をかけ、東日本大震災までに7万本。「奇跡の一本松」も数百年という植栽の歴史の中で、我々の先祖の手によって植えられてきた一本だった。

 

 

 

三陸大津波やチリ地震津波からも守ってくれた

 1896年(明治29年)の津波、1933年(昭和8年)の三陸大津波、1960年(昭和35年)のチリ地震津波。1611年の後も、東北はたびたび津波に襲われた。しかし、陸前高田の町は、近隣の村落がその被害に遭っていたとき、高田松原のおかげで、被害が比較的小さく済んでいる。


 皮肉にも、その津波被害を避け続けたことによる“経験不足”が、東日本大震災で沿岸部最大級の人的被害をもたらしたのも事実であろう。


 もちろん、だからといって松林を非難する理由にはならない。


 陸前高田にとって、この一本松とは「たまたま残った一本」ではない。これまで先祖たちが育て、その先祖たちを守ってくれた大切な松林。感謝の思いが凝縮された一本でもあるのだ。

 

 

 

文・恵美嘉樹(えみよしき)
作家。歴史研究の最前線の成果を社会に還元する二人組。

著書に『全国「一の宮」徹底ガイド』(PHP文庫)、『最新日本古代史の謎』(学研)など。

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