• 歴史

東日本大震災が起きてから、日本の歴史が震災という新たな角度で注目されるようになった。

 

M8.0クラスの大震災
富士山の噴火
大飢饉を招いた気候の寒冷化
など

 

かつては「大げさ」の一言で片付けられがちだった古文書の内容が、現実を目の当たりにして笑い事では済まされなくなったからだ。


歴史の記録には、我々の祖先が体験してきた貴重な記憶が詰まっている。

当連載では、それをやさしく紐解くことで、災害の今昔を学んでいきたい。

第三巻 気候の寒冷化が方丈記と源平合戦を産んだ

 日本の三大随筆と言えば、清少納言の『枕草子』、吉田兼好の『徒然草』、そして鴨長明の『方丈記』である。

 

 いずれも平安~鎌倉時代の貴族社会や市民生活などが描かれた、当時を知る上で貴重な史料。自然災害についても触れられている。

 

 今回、注目したいのは『方丈記』(1212年成立)だ。

 

 

 

平安京に捨て置かれた4万以上の遺体

ゆく河の流れは絶えずして、

しかももとの水にあらず

 

 皆さんも国語の授業で一度は目にしたであろう。上記の文章は、方丈記の書き出しである。

 世の中は常に流れており、もう二度と元に戻ることはなく、ただ続いていくのみ。そんな世の中の儚さ、虚しさを表したものだが、方丈記という書物を通して描かれたこの「無常感」は、当時のハザードと無関係ではない。

 

 養和元年(1181年)、鴨長明は同書の中で『大飢饉』について記している。

 

『春と夏は日照りで渇水となり(作物は満足に育たず)、逆に秋には台風が直撃して洪水が起き(収穫もままならなくなっ)た』

 

 当時の歴史を少し深く掘り下げてみると、実は、その前年に有名な「源平合戦」が始まっている。

 ならば戦争がこのような飢餓をもたらしたのね。と、現代人は発想しがちだが、真実はむしろ逆。度重なる天候不順により食糧が不足し、少ない作物をめぐって大戦争が始まったのだ。

 

 さほどに惨状を極めた飢餓を鴨長明は具体的な数字をあげて記述している。

 

『京都の仁和寺にある一人の僧侶が、京都内の路傍で死んだ人の額に祈りの梵字を書いて、遺体の数を数えた。

2か月間で、その数は4万2300余りにのぼった』

 

 もちろん、その前後にも死んだ人はいるし、平安京の外や全国となったら、どれほどの数になったことか。人口密度で考えれば、平安時代のこの数字はほとんど全滅の感覚に近かったであろう。

 

 

 

鴨川の河原では人肉を食べるものまでいた?

 興味深いのは、当時の貴族が書いた日記である。一部を抜粋しよう。

 

『鴨川の河原では人肉を食べるものまでいたという噂が流れている』

 

 さすがにそれはないだろう!とツッコミを入れたくなるのも無理はなく、実際、日記には続きがあり、『あらためて確認してみたら、そんなことはなかった』と否定もしている。

 この史料の肝は、「何が事実か?」ではない。数万人が餓死をして、人としてのモラルを保つための限界。それが極点に達していたのが平安末期という時代だったことだ。まるで芥川龍之介『羅生門』のような世界が現実に広がっていたのである。

 

 鴨長明は、庶民の生活に関しても触れている。

 

『民たちは、古里をすてて、国境(現在の県境など)を出て、定住生活をあきらめ山に住んだ。

薪がなくて、頼るつてのない人は、自分の家を壊して薪にした』

 

 薪なんて山から取ってくればいいじゃん。と、思われた方は、電気に当てはめて考えれば、このピンチを実感しやすい。

 電気がないからといって、自分の手足で発電機を回して、生活できるであろうか? 言うなれば、電池一本すらない状況だったのである。

 

 

 

源氏の勝因は義経や頼朝でもなく、雨

 作物が育たたないから、その他の食糧や物資、資源も市場に回らない。現代で言えば、大量に難民を発生させている国のようなものだ。

 当時の飢饉は、日本有史で最大級と言われているが、ではなぜ、こんな悲惨な状況になってしまったのか。

 

 原因は、気候の寒冷化だったと見られている。

 

 平安時代は優雅な貴族のイメージ通り、気候が温暖だった。海岸線が内陸にまで進出したほどである。

 そのため農業生産も向上し、奈良時代の都である平城京は人口10万だったのが、遷都した平安京ではぐんぐん増えたと推測されている※1。

 

 ところが、1100年頃をピークに気温は低下。「温暖化」を前提に拡大した人口を寒冷化が襲い、人々を戦争に駆り立て、ますます人口が減るという悪循環に陥った。

 現代でも、気温の変化に人間の生活を適応させるのは非常に難しい。ましてや天候をコントロールするなど神の所業。実際、平安時代には「神に祈る」しか術はなかった。 

 そこで、ひとつ乱暴な言い方をさせてもらうと、源平合戦で源氏が勝てた最大の要因は、義経の戦略でも、頼朝の政治でもない。

 

 雨だ。

 

 平氏が勢力基盤を誇っていた西日本では、源氏の関東に比べて梅雨が長く続き、農地の不作が著しかったのだ。

 まさしく、腹が減っては戦もできない状態。ハザードが戦争を起こし、また戦争の結果を導いたとも言えるのである。

 

 

 

※1平安京の人口については史料が残されていないが、平城京の2倍近くはあったと思われる

文・恵美嘉樹(えみよしき)

作家。歴史研究の最前線の成果を社会に還元する二人組。

著書に『全国「一の宮」徹底ガイド』(PHP文庫)、『最新日本古代史の謎』(学研)など。

 

参考文献 『平安京の災害史』(著・北村優季/吉川弘文館)

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