• 歴史

東日本大震災が起きてから、日本の歴史が震災という新たな角度で注目されるようになった。

 

M8.0クラスの大震災
富士山の噴火
大飢饉を招いた気候の寒冷化
など

 

かつては「大げさ」の一言で片付けられがちだった古文書の内容が、現実を目の当たりにして笑い事では済まされなくなったからだ。


歴史の記録には、我々の祖先が体験してきた貴重な記憶が詰まっている。

当連載では、それをやさしく紐解くことで、災害の今昔を学んでいきたい。

第六巻 南海トラフ巨大地震で『坊ちゃん』の湯が止まる?

 愛媛県松山市の道後温泉は西日本で最も有名な温泉の一つである。
 夏目漱石『坊ちゃん』の舞台もであり、本館は来年で築120年になる国の重要文化財。風光明媚な観光名所として今も愛媛のシンボルとなっている。


 その道後温泉本館が今、危機に立たされている。4月7日付読売新聞によると、建物の床下でシロアリ被害やコンクリートの劣化などが発覚。工事をすれば全面修復に8年間の期間を要し、その間、シンボルを失うことによる影響額は約600億円にものぼるという。

 何よりの懸念が、南海トラフ巨大地震だ。

 政府発表の予測によると、もし、この大地震が起きた場合、同市を襲う揺れは震度6強。今の状態で被災すれば、大きな被害が起きる可能性もあるという。
 実際、この温泉は歴史的にも幾度かの大地震を経験し、温泉の湯が止まるという事態にも遭遇していた。

 

 

 

我が国最古の津波は日本書紀に記されていた

 話は1300年ほど遡る。
 道後温泉の歴史はかなり古い。かの聖徳太子(574~622)も奈良の都からわざわざこの地にやってきて、お湯につかったという記録もある。

 さほどに古い時代から人々に愛されてきた道後温泉であるから、歴史書にも幾度か登場している。中でも注目したいのが『日本書紀』に見える一節だ。

 

『684年(天武13)10月14日のこと。夜の10時ごろ、大地震があった。国中で男女が叫びまどい、山は崩れ、川はあふれた。
 諸国の郡の官舎や人々の倉庫や家屋・寺院や塔・神社など、倒壊したものは数えきれない。これによって人々や家畜の多くが死傷した。
 このとき、伊予の温泉は埋没してお湯が出なくなった。
 土佐の国の田畑では50万頃※1が沈下して海となった』

 

 この南海大地震により、四国も広範囲で激しく揺れ、太平洋沿岸には大津波が到来。同書によると、高知県の国司によって『津波が高く盛り上がり、調(税の品)を運ぶ船が多く流出しました』という記録も残されている。
 調とは、歴史の授業で習った租庸調のことかぁ…。なんて呑気に構えている場合ではない。この地震により高知平野は沈下して、多くの死傷者をだした。

 

 実はこの記録こそ、日本人が津波に出会ったことを記す最古の記述である。『理科年表』によれば、推定規模はマグニチュード7。たしかに大きな地震であるが、ここで注目したいのは、『伊予の温泉は埋没して出なくなった』という一文である。伊予とは愛媛県のこと。つまり『道後温泉で湯がでなくなってしまった』ほどの揺れだった。

 

※1 読み方は「けい」で広さを表す単位。現在の単位で約1200ヘクタール

 

 

 

昭和南海地震でも全く同じ現象が

 皆さんご存知かもしれないが、四国沖から駿河湾にかけての海底には、「南海トラフ」とよばれる細長い凹地がある。

 

 ひとたび揺れればマグニチュード8クラスの巨大地震を起こす震源地。1946年の昭和南海地震でも近畿・四国地方は激しく揺れ、津波をひきおこし、高知平野では地盤が沈み、道後温泉は湯が止まった。
 そう、『日本書紀』とピッタリ合致する事実が近年にも起きていたのだ。

 

『日本書紀』には、神話や「ありえない話」も記載されている。そのためこの地震の記事についても、疑う人はいるだろう。が、7世紀後半の遺跡から、『日本書紀』の記述と合致した大地震の痕跡が見つかっている。たとえば、和歌山県北部では液状化現象の痕跡を示す遺跡が見つかったり、奈良県明日香村では、石垣の積まれた斜面が引き裂かれたり、1千年以上も昔の爪痕が残っているのだ。これ以上ない歴史の教科書である。大地震は事実とみてよい。

 

 また、『日本書紀』には678年に九州北部で起きたM6.5~7.5の大地震についても触れられており、このときは『山崩れで丘の上にあった家がふもとまで滑り落ちるも、中にいた家族が寝ていて気づかなかった』という仰天エピソードも残っている。

 

 この、678年と684年、2つの大地震を調べているうちに、ある事実に気が付いた。
 このとき中央で政権を担っていたのは天武天皇(?~686)である。彼は律令国家を築き、万葉集では「神」とうたわれるほどの傑物。それほどの人物となれたのも、実は大地震という国難が起きたからではなかろうか。

 

 

 

人が変わったように次々と大改革を実行

 天武天皇は、壬申の乱(672年)という古代最大の内乱に勝利し、強力な指導力のもと、旧体制を打破した人物として教科書には記されている。

 その治世に2度も巨大地震が起きていたのは、偶然ではないかもしれない。国が存亡に直面した場合、政治家はその手腕を問われるところだが、天武天皇は見事に逆境をばねにして、大改革を成し遂げたフシが見られる。

 

 実は、壬申の乱に勝利した天武天皇は、最初から思い切った政策を断行できたワケじゃなかった。天皇の象徴である都も新設できず、即位直後は母の王宮を改築して利用しているほど。臣下に遠慮して、思い通りの政策はできなかったようだ。

 

 それが678年に1回目の巨大地震がおきてから、人が変わったかのように次々と大改革に乗り出す。

 

 681年に「律令(法律)」の作成に着手。さらに日本書紀の原型となる歴史書の編纂も開始した。また国の根幹を支えるべく、日本で初めての貨幣も鋳造し、新たな都・藤原京も造営開始した。

 残念ながら藤原京は、すぐに平城京に取って代わられたが、大地震という未曾有の逆境により、国の体制も強固となり、政治手腕が発揮しやすくなったのではないだろうか。

 

 過去の地震から学ぶべきことは少なくない。揺れの大きさや津波の高さなどの科学的な分析だけではなく、天武天皇のような行動力も、その一つなのかもしれない。

 

 

 

著者紹介
文・恵美嘉樹(えみよしき)
作家。歴史研究の最前線の成果を社会に還元する二人組。
著書に『全国「一の宮」徹底ガイド』(PHP文庫)、『最新日本古代史の謎』(学研)など。
道後温泉では、個室「霊の湯」プラン(1500円)がオススメ

 

【参考文献】
寒川旭『日本人はどんな大地震を経験してきたのか』(平凡社新書)
保立道久『歴史のなかの大動乱』(岩波新書)

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