• 歴史

東日本大震災が起きてから、日本の歴史が震災という新たな角度で注目されるようになった。

 

M8.0クラスの大震災
富士山の噴火
大飢饉を招いた気候の寒冷化
など

 

かつては「大げさ」の一言で片付けられがちだった古文書の内容が、現実を目の当たりにして笑い事では済まされなくなったからだ。


歴史の記録には、我々の祖先が体験してきた貴重な記憶が詰まっている。

当連載では、それをやさしく紐解くことで、災害の今昔を学んでいきたい。

第七巻 大仏様、助けて! 悲劇の為政者・聖武天皇


 奈良の大仏は、正式名を「盧舎那仏(るしゃなぶつ)」という。仏教界では最高仏のひとつで、宇宙の真理を伝えることにより、人々を救うとされている。

 

 建造を命じたのは、奈良時代の第45代・聖武天皇(701~758)。彼は、大仏だけでなく全国に「国分寺」や「国分尼寺(こくぶんにじ)」を造立するなど、さまざまな仏教政策を実施し、国を護ろうとした。

 このことを歴史用語では「鎮護国家」というが、なぜ、そこまで大々的に仏様に頼らなければならなかったのか。

 

 実はこの聖武天皇、史上稀にみるほど天災に見舞われた、悲劇の為政者だったのだ。

 

 

 

地震、疫病、飢饉のオンパレード

 聖武天皇の時代がいかに災害だらけだったか。ざっと年表でご確認いただこう。

 

724年 聖武天皇即位。
725年ごろ 平城京のある奈良周辺で大地震あり。
732年 近畿地方を中心に大干ばつ
733年 近畿地方のほか、静岡や徳島県での干ばつによる水不足で飢饉
734年4月~9月 近畿地方(大和・河内)で大地震
737年 疫病大流行により都でも高級貴族をはじめ多数が死亡
740年 藤原広嗣の乱が起き、聖武天皇、平城京を離れる

(以後、恭仁京、紫香楽宮、難波宮と遷都を繰り返す)
742年11月 大隅(鹿児島県)の海底で火山噴火
743年 盧舎那仏を造る命令を下す(開眼供養は752年)
744年5月 肥後で地震
745年4月 美濃(岐阜県)などで地震。平城京へ戻る
749年7月 娘の孝謙天皇へ譲位

 


 地震、疫病、飢饉、反乱――。一人の治世の間に、これほどまで社会不安が続くのも珍しい。もちろん天災など、誰が統治したって防げるものじゃないが、当時の考え方は違った。
 天変地異は、天皇に徳があるかどうかで決まると考えられていたのだ。これが古代の「常識」であり、聖武治世の悪夢は、即位の翌年、いきなり都のある奈良の大地震から始まった。


 このときの様子を聖武天皇はかく語っている。

 

「天体は星が異常な様子をみせており、大地が地震を起こしている。こうした天災を考えてみると、その責任は私に深く関係しているのだ」

 

 聖武天皇は強引なリーダータイプではなく、責任感が強く、何事も背負い込むタイプの性格だったようだ。人民にとっては好ましいことかもしれないが、自然の猛威はそんなコトは関係ない。

 734年4月、今度は近畿地方(大和・河内)で激しい地震が起きた。当時の公式歴史書『続日本紀』には、こう書き残されている。

 

『圧死するものは多く、山は崩れ、川はふさがるなど大惨事をもたらした』

 

 余震は長く続いたようで同年7月と9月にも、M7.0~M7.5と推定される大地震が起きている。

 

 しかも、その直後には疫病が大流行し、当時の有力貴族だった藤原4兄弟が全員死亡。天然痘だったと見られているが、あまり外出しない貴族にまで広がるほど、すさまじい感染力だったようだ。現代の新型インフルエンザを上回る恐怖が都を包み込んだことだろう。


 次第に青ざめていく聖武天皇の顔が浮かぶ…。

臣下にまで反乱を起こされ、都を転々と…

 不幸と混乱はまだまだ続く。こうした天災の間隙をつくように740年には、臣下である藤原広嗣が乱を起こした。
 広嗣の理屈はこうだ。

 

「天災が起こるのは政治が悪いから」

 

 現代人から見れば、単なる言いがかりであるが、聖武天皇は「そうです、私のせいです」と素直に認めてしまう。

 数多くの天変地異が起こったということは、天皇に対して自然界が「ダメ出し」をしたということ。地面が揺れ、飢饉が起こるたびに、貴族や民衆の不満は為政者へ向けられても仕方がないと認めていた。

 

 そこで、聖武天皇は何をしたか? なんと反乱は部下に任せて、「彷徨」の旅へと出てしまうのである。

 

 責任感の強い人物でも、さすがに人災までもは一人で受け止められなかったのだろう。奈良の平城京から恭仁京→紫香楽宮→難波宮と遷都を繰り返し、再び平城京へ戻ってきたのは5年後。その間も、天災は容赦なく各地で頻発していた。

 

 

 

大仏様が天災を鎮めてくれれば責任を果たせる

 744年(天平16)5月には、肥後国(熊本県)で雷雨と地震がダブルで襲来した。

 このとき、豪雨によって民家470軒、住民1500名が水に流されたり、土砂に埋められたりした。一方、地震で起きた山崩れは280か所を数え、圧死者は40名。M7.0程度だったと推測されている。

 

 そして翌年には、地震が列島全体に広がり、746年までの1年半に、27回もの地震が起きたことが記載されている。745年の4月27日から5月10日までは、実に、毎日「地震」との記述があるほどだ。

 

 さすがにここまで来ると、何者かに「呪われている」気分に陥っても仕方ないだろう。世間では、政治批判を意味する火事(放火)なども相次いだほどだった。
 すべての天変地異は自分のせい。生真面目な聖武天皇は、悩んだ。いったいどうすれば、国は平和になるのだろうか。

 

 こうして下されたのが、大仏建立の勅だったのである。

 

 我々が歴史の授業で教わる奈良の大仏様は、単に「疫病をおさめるために建てられた」程度の記述しかない。そのため、『偉い人って、案外、心が弱いのね』と思われた方もいるだろう。
 が、当時、あの巨大な大仏を作るまでには、一人の天皇が自然災害に翻弄され、追い込まれた背景があったのだ。

 

 大仏によって天災さえ鎮まれば、自分の責任は果たせるはず。そんな必死な思いが天に通じたのであろうか。その後、偶然にも自然災害は減少方向へと向かった。それを見届けるように、聖武天皇は娘へ譲位し、出家している。

 

 

 大仏は、源平合戦や戦国時代の人災により損傷を受けながらも、修復を繰り返し、今も国の安寧を祈り、鎮座している。
 今後、もし盧遮那仏を拝む機会に恵まれたら、必死の思いで国を立て直そうとした聖武天皇に祈りを捧げるのも悪くないだろう。

 

 

 

著者紹介
文・恵美嘉樹(えみよしき)
作家。歴史研究の最前線の成果を社会に還元する二人組。
著書に『全国「一の宮」徹底ガイド』(PHP文庫)、『最新日本古代史の謎』(学研)など。

好きな仏像は、奈良県安倍文殊院の渡海文殊菩薩

 

参考文献

『日本歴史災害事典』(吉川弘文館)

バックナンバー

ページのTOPへ